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「べらぼう」の蔦屋重三郎って何した人?江戸のメディア王と呼ばれた理由

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の主人公である蔦屋重三郎は版元(出版社)を設立し、編集者として数々のヒット作を生み出した人物であり、「江戸のメディア王」とも呼ばれています。今回は、大正大学表現文化学科の仲俣暁生先生と、歴史学科の櫛田良道先生との対談をもとに、蔦屋重三郎が生きた時代や、現代との共通点についてひもといてみましょう。

ここをCHECK
  • ZINE文化の原点は江戸にあり? 蔦屋重三郎のメディア戦略
  • 歌舞伎役者の訃報は錦絵でバズる!? 江戸時代の速報メディア
  • 江戸時代にも「なろう系」小説が存在した!

江戸の表現者たちを支えたプロデューサー・蔦屋重三郎

蔦屋重三郎は、寛延3年(1750年)に吉原(現在の東京・台東区)で生まれ、幼くして両親と生き別れたのち、遊客を遊郭に案内する「引手茶屋」の養子になりました。20代で、当時の最先端の流行や文化が集まっていた吉原大門前に書店「耕書堂」を開業。やがて、吉原遊郭のガイドブック「吉原細見」の出版を手がけ、このヒットを機に、吉原に集まる画家や戯作者(通俗小説の作家)たちと交流を深めていきます。

仲俣先生「蔦屋重三郎の職業を現代風に表すと、“総合メディアプロデューサー”という言い方が一番しっくりきます。単なる書店や出版社にとどまらず、ビジュアルとテキストが融合したメディアをつくり、喜多川歌麿や東洲斎写楽といった浮世絵師を世に送り出すなど、美術と出版を横断する存在でした」

蔦屋重三郎の成功の背景には、江戸幕府老中・田沼意次が政権を握っていた「田沼時代(1767〜1786年)」という特異な時代背景があったと、櫛田先生は話します。

櫛田先生「田沼意次の登場によって、享保の改革による禁欲的な政策は一転し、商業主義へと大きく舵を切りました。​具体的には、商人の同業組合である『株仲間』を奨励し、商業活動を活性化させることで財政を再建。​また、貨幣経済の発展を促進し、都市文化の発展にも貢献しました。この時代は、賄賂政治と揶揄されることもありますが、結果的に経済が潤い、庶民の教養や文化の水準が底上げされ、町人文化が花開いていったのです」

このような時代の中で、蔦屋重三郎は画家や戯作者たちの才能を引き出し、自由な創作を促しました。当時のクリエイターは、本業は武士でありながらペンネームで作品を発表するなど、画業や筆業はあくまで副業としての表現活動だったそうです。しかし、蔦屋重三郎のようなプロデューサーの存在によって、こうしたクリエイターたちの創作の場が広がり、新たな文化が形成されていったと、仲俣先生は説明します。

仲俣先生が教える学生が自主的に運営する出版グループで制作したZINEの数々

仲俣先生「当時の作品は、経済的には大きな市場を形成していたとは言えずとも、同好の士の間で評価され広がりを見せていくという、現代の同人誌にも似たスタイルでした。このような構造は、現代のZINE文化や、インターネットを通じた個人の発信や創作活動とも通じるところがあります」

錦絵は江戸のブロマイド。庶民が育てたメディア文化。

蔦屋重三郎は、絵入りの小説である「草双紙」や、風刺や皮肉を盛り込んだ狂歌を集めた「狂歌本」、歌舞伎の人気役者や名所の風景を描いた浮世絵などを次々プロデュースし、それらの書籍や絵は庶民にも親しまれました。 では、当時の識字率はどのくらいだったのでしょうか? 正確な数字は不明ですが、櫛田先生によると、男性で80%、女性で50%程度と推定されているそうです。さらに、幕末にはそれぞれ95%、75%程度まで上昇したと考えられているといいます。

櫛田先生「識字率向上の背景には、幕府の高札(立て札)の存在がありました。法令をしっかり理解するためにも、文字の読み書きが欠かせなかったのです。教育は寺子屋を中心に町ぐるみで進められ、庶民の中に『お触れを読めなければ損をする』というメディアリテラシーが芽生えていきました」

識字率が向上したとはいえ、当時の書籍は庶民が所有するには高価でした。人気作の内容は、回し読みや貸本という形で庶民の間に広まり、数百から数千部の出版であっても、影響力は非常に大きかったと、仲俣先生は話します。

仲俣先生「当時の読書文化は、黙読できる人はまれで音読が主流でした。文字を読める人が読み上げ、周囲がそれを聞くスタイルが一般的だったため、実際の発行部数を超えて多くの人が作品を楽しんでいたとも考えられます。出版物は江戸を起点に上方の京都・大坂にも流通し、文化の中心地である上方と江戸との交流も活発化していきました」 さまざまな流行が生まれる中で、歌舞伎役者の人気も上がっていき、役者を描いた錦絵も飛ぶように売れたそうです。

櫛田先生「現代のアイドルファンが推しのブロマイドを買い求めるのと同じように、当時の女性たちは歌舞伎役者の錦絵を買い求めました。また、役者の訃報が入ると死絵(しにえ)と言われる錦絵が速報的に刷られて、すぐさま人々の間に広まっていきました。つまり、錦絵が現代のネットニュースのような速報メディアとして機能していたんです。人々は生の情報を求め、それを共有し合い、文化を形成していったんですね。

面白いのは、写実的ではない錦絵も多かったこと。例えば、亡くなった役者がお釈迦様の涅槃像みたいな体勢で寝転び、その周りでたくさんの女性や猫が泣いているような、パロディ化した錦絵も作られました」

これらの錦絵は、都市部のみならず、参勤交代などで江戸を訪れる武士を通じて地方にも広がったと考えられているそうです。出版業は絵師・戯作者・彫師・摺師といった分業体制で成り立っており、蔦屋重三郎のようなプロデューサーが活躍しました。

時代の流れを読み取るには?蔦屋重三郎のプロデュース力から学ぶ

蔦屋重三郎は、歌麿や写楽などの浮世絵師、エレキテルの復元で有名な発明家の平賀源内の他、山東京伝など多くの戯作者とも親交がありました。当時はどのような読み物が好まれていたのでしょうか。

仲俣先生「例えば、恋川春町の『金々先生栄花夢』など、当時の物語には、妄想や夢オチ、自己変容などが頻繁に登場します。構成としては、現在の『なろう系』に似ていると言えますね。時代が進むにつれて、絵中心から文字主体の読み物へと進化していき、江戸後期には『南総里見八犬伝』の曲亭馬琴のような作家が登場。娯楽としての物語の人気が高まっていきました」

櫛田先生「田沼政治によって、江戸文化は爛熟期を迎えますが、1787年から1793年にかけての寛政の改革で再び抑圧されることになります。蔦屋重三郎も、1790年に発令された出版統制令によって、厳しい処罰を受けました。しかし、一度火がついた人々の表現への意欲は消えることなく、文化文政期には再び盛り返しを見せます。どれだけ抑圧を受けても、表現や感性は途絶えることなく受け継がれていくということですね」

蔦谷重三郎が生まれ育った吉原は、ファッションや風俗の発信地であったと同時に、差別の温床でもありました。

櫛田先生「蔦屋重三郎の特異性は、彼が単なる自己実現ではなく、吉原という情報・文化・経済の交差点に生きる人々全体の幸福を考えていた点にあります。蔦屋重三郎は差別や貧困、格差といった現実の中で、江戸の町に『面白い』を届け続けることで、単なる商人に留まらず、文化的な影響力を持つ人物となったのです」

特異な土地に生まれ育ち、多層的な社会構造を目の当たりにして育ったことが、蔦屋重三郎の先見性やプロデュース能力の素地になったことは間違いないでしょう。では、蔦屋重三郎のように時代の流れを読み取るにはどうすればいいでしょうか? 仲俣先生「江戸時代に比べて情報へのアクセスが容易になり、感性を磨きやすくなったことは、現代を生きる私たちの強みと言えます。私たちも、好奇心を持ち続けてトライアンドエラーを重ねることで、蔦屋重三郎のような嗅覚や行動力を身に付けられるのではないでしょうか」

まとめ

「推し」や「なろう系」といった現代的なキーワードで江戸時代の文化を読み解くことで、親しみが湧いてきませんか? 難しく捉えるのではなく、共感や親しみを持って歴史を楽しむことで、当時の人々の想像力や文化の多様性に気付くことができるでしょう。

取材・文:東谷好依
撮影:杉﨑恭一
編集:エクスライト