学部・大学院FACULTY TAISHO
こども文化・ビジネスコース
先生たちの春休み:野田先生編
みなさん、新学期が始まりましたが学生生活は順調ですか?
さて、秋学期の最終授業で「先生も楽しい春休みを~」と言ってくださった学生さんが何名かいました。
学生さんの中には「先生達って春休みどんな風うに過しているの?」と疑問を持っている人たちも居るのではないでしょうか。
先生は春休みもいつもと変わらず大学で仕事をしています。
講義はありませんが、入試に加え、実習施設の開拓や講義の準備、そして研究に励んでいました。
では野田先生はどんな春休みを過されていたのでしょうか?
去る、平成24年4月12日に韓国ソウルにて「韓国神経精神医学会」が開催されました。
プレナリーセッション(学問的に優れた内容であり、かつオリジナリティーを持った講演)に野田先生が招聘されお話をしてきました。
野田先生は韓国語のスライドや原稿をつくることに春休みの大部分を費やしていました!
御年六十?歳で韓国語に挑戦していました。
野田先生の講演の内容をホームページにアップします。みなさん、ぜひ、勉強してください!
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「災害、こころ、文化」
野田文隆(大正大学、ブリティッシュ・コロンビア大学)
16世紀末、日本の当時の為政者であった豊臣秀吉は李氏朝鮮に攻め入り、幾多の陶工を日本に拉致した。
南原城の捕虜たちは鹿児島に流れ着き、鹿児島の郊外、苗代川(のしろこ)という場所に居を定めた。
それはその土地が全羅北道南原城の風光に似ていてかれらの望郷の思いを慰めてくれたからである。
かれらを保護した島津家の領主がどんなに鹿児島へ出てこいと誘っても行かなかった。
かれらは丘に登り故国の方角に遥拝しながら故郷の山河を懐かしんだという。
代々、かれらは陶芸を焼き、かられの焼く、「白薩摩」「黒薩摩」は国宝級の値打ちがでた。
19世紀末期まで、かれらは村では韓語を用いていた。
かれらにとっていつの時代にも故郷は「忘じがたい」ものであった。
時代が流れ、第14代の村の首長、沈寿官氏は1966年韓国に招かれる。
時は戦後の韓日関係が最も悪い時期だったかもしれない。
韓国民は戦前、戦中の日本の行いに怒りを露わにしていた。
ソウル大学の講堂で彼は韓日関係に触れてこう語った。
「あなた方が36年をいうなら、私は370年を言わなければならない」。
学生は大きな感動をこめた歌で沈氏を称え、沈氏は涙にくれたという。
戦争を含め、大きな災害が奪うものは物理的な故郷であり、そこに集う共同体の絆である。
2011年3月11日、日本の東北地区は史上類を見ない地震と津波に襲われた。
私は震災直後から折節に福島県相馬という沿岸地域に足を運んでいる。
かれらは村を奪われ、家族を奪われ、人生の思い出も奪われた。
そして今は見えない放射能をいう恐怖に人々の絆も裂かれようとしている。
でも、日本の東北の民は今までも何度も辛酸をなめてきている。
荒れる海は数えきれないほどの命を奪ってきた。
また、この100年、大きな津波を3回は経験し、その度にすべてを流されている。
また、寒い夏は幾度となく飢饉を運んできた。
東北の民は我慢強く、粘り強いといわれる。
その人たちの文化はあまり「こころが弱る」という現象を受け入れようとしない。
こころが弱っていては生きていけないからである。
それは奥深いローカルな地域に住む人たちのマスターナラティブともいえる。
都会から被災地に入ったこころのケアチームは、あまりのニーズの無さに愕然としたという。
でも、現実はニーズがないということではなく、ニーズを表す仕方が違うということである。
その文化が読めなくては東北では仕事ができない。
私と私のチームは、こころのケアという直截なアプローチはやめ、避難所や仮設の住宅のある場所で被災した人々になにか楽しいことを提供することを行っている。
避難所でコーヒーや抹茶を提供することから始め、夏には盆踊りや花火、秋には芋煮会を行い、新年には初市を予定している。
その折々に被災した人々の語りを拾ってきた。
3月には「がんばんべ、がんばるしかね」、4月には「いろんな人に支援してもらって、ありがてな」、6月には「これから仮設で生活するし、負けてらんに」と夏前は強い語りが聞かれていたが、8月には「今まで頑張ってきたけれど、もうだめかもしんに」とトーンダウンし、11月には「酒を飲んでストレスを、ごまかすしかねえ」というつぶやきも聞かれ、1月には「おれたちにはこころのケアなんていらねえ。確かな明日が欲しい。それを保障して
くれるものがほしい」と怒りをこめた言葉が聞こえた。
これがトラウマ(心傷)の表れ方だろうと思う。
トラウマを語り始めるまでには、卵が孵化するような時間が必要である。
その人によっても、風土や文化によってもその時間は違う。
それを考慮せずに一概に被災した人のトラウマ探しをしてはいけない。
「頑張ろう、頑張れないかもしれない」という自答を繰り返しながら、人はいつか痛みを語り始める。
その始まりにはなにか琴線に触れるきっかけがいる。
それは時の経過であったあり、家族や地域社会での癒しであったり、支援者の寄り添う姿勢であったり、あるいは悲嘆からの回復の決意であったりする。
多文化間精神医学者としての私は、支援は「文化の形」であると思っている。
その土地の言説に合わせた支援を提供しなければトラウマをいやす専門職として役割は果たせない。
それがcultural competence(文化を理解し対処する能力)だろうと思っている。
私たち日本人にもっとcultural competenceがあれば、私たちは韓国・朝鮮の同胞をもっと正しく理解し、辛い歴史を刻むことはなかったのだろうと思う。
それほどに文化を理解することは大切であることを、生物学的潮流に流されがちな精神医学に問いかけたい。
(文責:鵜川)