学部・大学院

「学び」と「実践」を通じた人材育成

国際文化コース

授業点描①

classroom1.gif秋学期がはじまって3週間、履修登録の手続きもほぼ終わり、学生たちも授業や研究に全力で取り組んでいます。夏休みのオープンキャンパスでは受験生やご父母のかたたちでにぎわったキャンパスですが、それとはまたちがう活気が大学にあふれています。

カルチュラルスタディーズコースが提供する授業のなかに、「カルチュラルスタディーズ総論」という科目があります。カルチュラルスタディーズコースの学生だけではなく、人文学科の共通科目として他のコースの学生も受講し、本年度は100人弱の授業になりました。一般的な大学の授業サイズとしては大きいほうではありませんが、少人数教育を旨とする大正大学では比較的大きいサイズの授業です。

カルチュラルスタディーズ総論では、文化を研究する方法を学びます。調べておしまい、ということは大学ではありえません。調べて、考えて、自分の考えを引き出して、そしてそれを他の人に納得してもらえるように説明できることが求められます。授業もしばらくは教師が講義をしますが、最終的には学生がテーマを見つけ、発表し、発表者の見解にみんなでコメントをする、というように展開していきます。発表者は立候補制ですが、プレゼンテーションをする学生も、聞いている学生も、時間と空間を共有することによって、相互に大きな成果を得ることができます。

身近なことがらから考察をはじめる、それがカルチュラルスタディーズですが、1回目の授業では「大学」について考えました。大学生は「大学」という教育文化のまさに当事者です。教室で学生たちは席に座り、教師がマイクで話をする、という構図はどうして成り立つのだろう、教師が自分の話を聞きなさいと学生に強制することができるのはなぜなのだろう、と。

この授業は基礎科目なので受講している学生の大半は1年生です。入学してまだ半期しかたっていない学生たちに、大学を自分のことばで定義してみてほしい、と呼びかけました。授業担当者の定義は「大学とは知識が力になるところ」、教師は根拠のない力を発揮して、学生に話を聞けと言ったり、課題を提出しろと言っているわけではありません。話者であることも、課題を義務付けることも「力」ですが、それは制度によって認められた資格があるからです。その資格の一つが「知」です。

100人の受講生一人ひとりの意見を聞くことはできませんから、何人かに自分の意見を披露してもらったあと、それぞれの考えは紙に書いてもらいました。いろいろな表現がありましたが、学生たちの大学の定義は「自由のある場所」「自分を発見するために過ごす場所」「自分の責任が問われる場所」「社会に出ていくための準備をする場所」「遊ぶ場所」に集約できます。キーワードは「自由」「自分」「責任」「社会」「楽しむ」。

ギター.gif2回目の授業は、そこから「自由」とはどのようなものか、ということを考えました。文化研究は具体的なものから考察を始めます。題材にしたのは若者が自由を求めてさまざまな活動をした1960年代の音楽。ボブ・デュランやジョーン・バエズのフォークソングをたどり、自由を阻むものに対してどのように抗議し、自由をどのように希求したか、自由がどのように象徴化されているか、考えました。1960年代は学生運動の時代でもありました。

そしてまた質問、2010年の若者にとって「自由を表象するもの・象徴するもの」は何か。学生の答えを集めて、表にして、3回目の授業で配布しました。学生の多くが挙げたのが「携帯電話」です。こうなると携帯電話はただの小型電話機ではありません。一つの文化的「装置(device)」です。

このことから、3回目の授業は携帯文化の元祖ともいえる「携帯式小型高品質音楽再生機」つまりウォークマンの出現によるライフスタイルの変化をテーマにしました。考察する時代も1970年代へとうつります。「いちご白書をもう一度」の時代です。最初のキーワードの一つ「自分」も、この時代の歌や映画の重要な主題になっていることを学生といっしょに確認しました。この頃の音楽も、歌詞も、そう古くさいとは感じない、という学生の意見も興味深いものでした。

そのうえで、携帯文化の先端に位置する「携帯電話」です。これは次回の授業のテーマです。

大学の授業にも、もちろん授業計画「シラバス」はあります。それに沿いながら、でも授業の「なかみ」は学生とのやりとりで作られていきます。思いがけない発見は、担当教師にもたくさんありますし、学生のプレゼンテーションに感動することもしばしばです。

大学の主役は何といっても学生です。これからどのようにディスカッションが発展していくのか、わくわくしています。♪♪♪

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