学部・大学院

「学び」と「実践」を通じた人材育成

国際文化コース

カルスタ、あれこれ(その6)――座学 vs. フィールドワーク

先回は、私の新著を装丁してくださった芦澤泰偉さんの素敵なカバーを話題にとりあげ、「装丁」について思いをめぐらしました。その私の新著『宗教と〈他〉なるもの――言語とリアリティをめぐる考察』は、四半世紀にわたる「座学」の成果です。「座学」というのは、ひたすら座って読書しながら(現代ではパソコンもいじりながら)思索をめぐらす、という学問スタイルを意味します。

これに対して、室内ではなく、屋外で行う研究活動を「フィールドワーク」といいます。座学派はフィールドワーク派から、時として、嘲笑されることがあります。たとえば、「星川のヤツは宗教について本を出したけど、現実の宗教/生きた宗教を知らないからな」などという具合に(笑)。こういう意見には反論したいのですが、今回はすなおに認めましょう。

これと似たようなことは、どこにでもあります。わかりやすいところでは、「恋愛をしたことのない者に、恋愛小説は理解できない」「鮨を食べたことのない者は、鮨の本を読んでもわからない」。もう少しアカデミックな例をあげると、文学作品を通じてフェミニズムを研究しているある学者によれば、「あなたの研究は生きている女性たちの生活実態を踏まえていない」と批判されるそうです。

 

『オウム真理教の精神史』(春秋社、2011年)という本を書いた大田俊寛氏が、興味深いことを述べているので、紹介しましょう。

「オウム事件からわれわれが汲むべき教訓は、きちんとした学問的知識や理論、ディシプリンを習得する以前に盲目的に行われる〈フィールドワーク〉や〈潜り込み〉は、特に宗教団体を対象とする場合には、きわめて危険であるということではないだろうか。」

私の新著は、大田氏がいう「学問的知識や理論、ディシプリン」に近いもの/基礎理論的なものを扱っています。私はフィールドワークを軽視するものではありません。そうした研究から大きな恩恵を受け続けています。しかし、フィールドワーク型の研究者からの揶揄も念頭におきながら、座学の重要性について考えてみたいと思います。

 

一般的には、フィールドワークを行わない研究者のことを「アームチェア・スカラー」(肘掛椅子に座っている研究者)というのですが、自分に対してこうした批判を向けられた大田氏は、次のように反論しています。

  「こうした批判はまったく正反対であることが分かる。実は当時、オウムをフィールドワークの対象として選んだ人類学者(坂元新之輔という戸籍技術史の研究者)がいたが、彼はオウムの修行や世界観に次第に魅了され、その強力な擁護者になってしまった。」

「また当時の宗教学では、〈潜り込み〉と呼ばれる強引な参与観察の手法が横行しており、オウムを擁護した中沢新一〔著名な宗教学者〕や島田裕巳〔著名な宗教学者〕は、ともにその実践者であった。そして彼らは、チベット密教の修行やヤマギシ会における自らの体験を踏まえ、オウムの活動を肯定的に評価することになった。」

 つまり、上の「きちんとした学問的知識や理論、ディシプリンを習得する」ことの重要性を2つの引用は述べているのです。そうしたことを習得するための座学が、いかに重要であるかが、理解できるでしょう。一言でいえば、「座学が充分でないと、物事の本質を見誤る」とでもいえるでしょうか。

 

 フィールドワークしかしない研究者はおそらくいないでしょう。中沢氏や島田氏は信じられないほどの数の本を書いていますし、大いに座学もしていることは明白です。ただ、当時の「潜り込み」「参与観察」をしていた中沢氏や島田氏に対する、大田氏の主張――「彼らは、オウムの活動を肯定的に評価することになった」――もよく分かります。

哲学者はもちろんのこと、社会学者のウェーバーや文化人類学者のマリノフスキーなど、人間の社会や文化に深い洞察を示した多くの研究者たちですら、その生涯の多くを「アームチェア・スカラー」として過ごしました。

 

 さらに話を進めましょう。フィールドに行けば「対象を客観的に見る」ことができるのでしょうか? これについては、「そういうことは絶対にあり得ない」と明言しておきます。私の新著の根底には「物事を客観的・中立的に見ることはできない」という主張があります。すべての認識は、自分の「背景」――好み・信念・価値観・認識構造などのすべてをひっくるめたもの――を踏まえて、ある対象に向きあうのです。「心を鏡のようにして、虚心坦懐に事実を見る」ということは、不可能です。

自然科学者も例外ではありません。実際には、自然科学者は「仮説」とか「理論」とか、ものすごく広くて深い「背景」を背負いながら対象を観察しています。決して、物事を「客観的に」観察しているのではありません。また、よくいわれる「事実関係だけ」というのもありえません。「事実関係」も、それを話す人や聴く人の「背景」によって取り囲まれているからです。

さらに、「実証主義(経験的に観察できる物事に重きをおく立場)が一番すぐれたアプローチだ」と考える学者もいるようですが、これにも根拠がありません。本気でそういうふうに考えている人には、「自分が採用している実証的研究方法が一番すぐれている」ことを実証的手続きにしたがって「実証」していただきたい。これは不可能だと思います。もしもきちんとした形でそれができれば、私は素直に謝りましょう。

 

いつもと違って、だいぶ過激な論調になってきましたね(笑)。実際には、座学だけの人、フィールドワークだけの人は存在しません。座学派の研究者でも、なんらかの形でフィールドワークをおこなっています。たとえば哲学者は、存在や価値や言語や認識や倫理などについて哲学しているのですが、これらはすべて日常生活と深い関係をもっています。だから、意外にも、哲学者は毎日フィールドワークをしているのです! フィールドワーク派の研究者でも、先行研究に目をとおすことから始まって、種々の文献を読んでいます。

要は、自分の研究している対象にマッチした「座学とフィールドワークのバランスをとること」が重要なのです! シェークスピアの研究も座学だけではできません。できれば、イギリスに行って――行けない場合は、せめて日本で――舞台をみたり、彼の生家を訪れたりするのも、立派なフィールドワークです。

 

次回は今回の話をふまえて、カルスタの学生の皆さんの勉強方法について、考えてみたいと思います。

 

星川啓慈

 

※今回の「カルスタ、あれこれ」は、大田俊寛氏のhttp://twilog/t_ota から引用させていただきました。

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