学部・大学院FACULTY TAISHO
国際文化コース
カルスタ、あれこれ(10)――「自由意志」は幻想か?
はじめに
今日から秋学期ですね。夏休みはいかがでしたか? 有意義な時間を過ごせたでしょうか?
春学期の最後に予言したように、今回から数回にわたって、脳科学=神経科学について書いてみたいと思います。
「意志の自由」は幻想か?
1970年代以降における「脳科学」ないし「神経科学」の発達には、目覚ましいものがあります。近年は、人文系の学問においても、「心」をめぐる諸問題と脳科学を絡めた議論も盛んになされるようになってきました。私も、昨年の日本宗教学会の学術大会のさい、精神科医をはじめ各方面で活躍している人たちと、「脳科学と宗教体験」というパネルを企画しましたが、非常に盛況でした。それだけ、「脳科学と心の関係をめぐる問題」に興味がもたれている、ということでしょう。
Photo by T. Matsuno
(左から、芦名定道・京都大学教授、筆者、杉岡良彦・精神科医師、
藤田一照・曹洞宗国際センター長、冲永宜司・帝京大学教授)
皆さんも、「心の世界が自然科学=脳科学によって侵食されるのではないか」「心と脳はどのような関係にあるのだろうか」という問題に興味はないでしょうか?
現在の脳科学では、たしかに脳内過程の細かなことはかなり解明されてきています。でも、皆さんの多くは「さまざまなことを自由に決めるわれわれの〈自由意志〉は脳科学では扱えないだろう」なんて思っていませんか? こうした心の領域は、脳科学からの侵食に対してはまだまだ安全圏にあるようにも見えますからね。
今年の新聞記事に「ザリガニですら意志がある」(5月1日付けの日経新聞)という研究結果が載っていました。無脊椎動物のザリガニにすら「意志」があるというのです。もちろん、ザリガニの「意志」は人間の「意志」とは比較にならないでしょう。しかしながら、研究者たちは「ザリガニにも一種の意志がある」という結論をだしました。
ところが、「人間に「意志」はない」と主張する研究者もいます。ドイツでは数年前から、G・ロートやW・ジンガーらの脳科学者が「私ではなく、脳が決断する」という前提から「意志の自由は幻想である!」と主張し、従来の人間観を根底から覆そうと試みているようです。
皆さんの毎日の行為や行動(単純なものから複雑なものまで)は、「脳」が決めているのであって、皆さん自身が決めているのではないというのです。こう言われて、どう感じますか? なんとなく、面白くないでしょう。
もしこれが覆せない事実であれば、現在の法体系も見直す必要があります。なぜなら、現在の法体系の根底には、「われわれの自由な意志に基づく行為があるからこそ、われわれの行為には責任が伴う」という考え方があるからです。ですから、もしもわれわれに「意志」がないとすれば、自分の行為に責任をとる必要もないのです。
脳と心の関係の歴史
脳科学を生みだした西洋において、心と脳がどのような関係にあったかを、駆け足でふりかえっておきましょう。
ヨーロッパ語の「魂/心/精神」という言葉は、ギリシア語の「プシュケー」に由来します。このプシュケーは、もともと「生命活動全体」のことを意味していました。栄養摂取能力・運動能力などもプシュケーの働きでした。しかし、R・デカルトという17世紀の哲学者は、大筋において、魂/心/精神の本質を「思考能力」に限定し、その他のものを切り捨ててしまいました。高校で習った、例の「我おもう、ゆえに、我あり」という言葉ですね。また当然、脳は身体の一部であり、脳は魂/心/精神とは別のものとなります。
デカルト以降の多くの人々は、基本的に心と体を分ける「心身二元論」をめぐって、つまり、心と体の関係をめぐって、思索を展開してきました。現代でもこの二元論は生きています。現に、皆さんも、心と体を分けて考えているでしょう!
でも、心と体を分けてしまうと、面倒な問題も生まれてきます。ビリヤードで、衝いた球が他の球に当たると、その球は動きますね。当たり前ですね。しかし、空間的広がりも重さもない「心」「思考」が、どうして空間的な広がりや重さのある身体を動かすことができるのでしょうか。これはなかなか難しい問題でしょう。デカルト以降の人々はこうした問題に悩み、いろいろな解決方法を考え出しました。
こうした流れのなかで、20世紀の半ばに「心脳同一説」という説が登場し、心の状態と脳の状態との一対一的な対応関係を突き止めようとしました。たとえば、ラーメンを食べて「美味しい」と思ったときには脳の状態はこうなっているなどと、心の状態と脳の状態との対応関係を見つけようというわけですね。現代では、心身の関係をめぐって種々の立場がみられます。でも、基本的に、自然科学的な傾向が強い脳科学の立場では、「心の働きを脳の働きに還元してしまおう」「心の問題を自然科学の問題に還元してしまおう」(脳一元論)という傾向が日増しに強くなってきているような気がします。
しかしながら、1990年代の半ばに、神経哲学者D・チャルマーズは、「物質としての脳はどうやって情報を処理しているのか?」 という類の問題(「意識のイージープロブレム」)と、「物質としての脳の振る舞いから、なぜ、どのようにして、主観的な体験といったものが生まれるのか?」という類の問題(「意識のハードプロブレム」)を明確に分けました。いってみれば、脳一元論に待ったをかけたのです。
さらに、「脳と心は独立した2つのものだが、それらは互いに相互作用を及ぼし合っている」という説を「心脳相互作用説」(二元論の一種)といいます。哲学者のK・ポパーやノーベル賞を受賞した神経科学者のJ・C・エクルズたちの立場です。エクルズは自然科学者ですが、脳と独立に存在する魂/心/自我を想定し、それが脳と相互作用すると考えているのです。
おわりに
エクルズとポパーについては、いずれ改めて論じますが、今日はここまでにしましょう。大学の講義のようになってきましたね(笑)。
次回(9月30日アップの予定です)は、「心の領域は脳科学に侵食されるのか」という問題について、私の意見を述べましょう。