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「学び」と「実践」を通じた人材育成

国際文化コース

カルスタ、あれこれ(21)――著者不在の読書論

はじめに

 

新学期が始まりますね。新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。在学生の皆さんも、新たな気持ちで新学期に臨んでください。

4月といえば、向学心に燃えている読者も多いでしょうから、今回は「読書」について考えてみたいと思います。名付けて、「著者不在の読書論」。その心は、「著者不在ゆえに、気楽ながらも、自分が試される厳しい読書」です。

「読書」という行為について思いをめぐらすとき、そこには「著者」と「本」と「読者」という3つの項があります。しかし、「著者がいなくても本と読者さえ存在すればいい」という考えは成り立たないでしょうか? こういう見解を支持してくれる人はいないでしょうか? いるのです。というか、そうした見解を強く打ち出した人がいます。

それはポール・リクール(19132005)という哲学者です。彼は、上の3項関係における「著者」を、居なくていいものとしました。今回は、20世紀のフランスを代表する哲学者であり、解釈学・現象学・宗教哲学などの分野において多くの業績を残したリクールの思索をもとにしながら、「著者不在の読書論」を展開しましょう。

 

Paul_Ricoeur.jpg 文字言語

私たちは言葉をつかって生きています。言葉は書かれたり話されたりします。いわゆる「書き言葉」と「話し言葉」ですね。このブログの内容を口頭で皆さんに話したとしても、それを精確に覚えてもらえるわけではありません。しかし、こうやって「文字」にすると、いつでも再現できますね。文字とは素晴らしいものですね! 日にちをおいて、これまでの「カルスタ、あれこれ」を何度でも読んでみてください(笑)。

 私たちは、本=テキストを読みます。一般的にいうと、その本の「文字」は著者の心の中に浮かんだものを再現したものです。しかし、リクールは「文字言語はテキストを、その著者の志向〔思考〕から自律させる」「テキストが意味するものは、もはや、著者が意味しようとしたものとは一致しない」と断じています。つまり、テキストの内容は著者の考えたものではない、というのです! こんなことがあるのでしょうか。さらに、彼は「文字言語のおかげで、テキストの〈世界〉は著者の世界を破裂させることができるのである」とも明言しています。すなわち、文字のおかげで著者がいなくなり、テキストはめでたく独り立ちできる、と言っているのです。

 

「解釈学」という学問

 「解釈学」という学問が西洋にはあります。ホメロスというギリシアの詩人が生きていた時代の人はいいのですが、彼が死んで長い時間がたつと、彼が生きていた時代状況がわかりにくくなります。そうすると、彼の作品の理解にも支障がでてくるでしょう。また、聖書はいったい何を書いているのでしょう。文字の背後に何か隠されたものがあるのでしょうか。ホメロスの詩や聖書を始めとして、私たちは書かれたテキストをどのように解釈したらいいのでしょうか? 解釈学はこうした事柄と深い関係にあります。

 西洋の伝統的な解釈学者たちは、「著者と同時代人になること」「テキストを生みだした作者の〈天才性〉に匹敵すること」を目指していました。つまり、著者自身の精神世界に読者ができるだけ近づくことを目標にしたのです。

 ところで、文字で書かれたテキストを挟んで、テキストの著者とその読者との間には「距離」――これを専門用語では「疎隔」といいます――がありますね。ホメロスと同時代人と比べれば、私たち現代の日本人は、ホメロスとの距離がより大きいことは分かるでしょう。時代も社会状況も言語も価値観も政治体制も、何もかも違っていますからね。その距離は場合により大小様々です。しかしながら、どのような場合であれ、この距離は著者の精神世界に近づこうとする読者にとって「障害」以外の何物でもありません。解釈学者たちはこのように考えました。賛成する方も多いでしょう。そこで、彼らは「いかにこの疎隔を小さくするか」という問題に腐心しました。

 

テキストの世界

 上のような伝統的な解釈学の見解に対して、リクールは次のように語っています。

  「テキストにおいて解釈すべきは、世界の提起である。私がそこに、何よりも自分自身の可能性を投企するために住むことができるような世界の提起である。それを私は、「テキスト世界」「この独自のテキストに固有な世界」と呼ぶのである。」

 テキストにおいて解釈すべき事柄は、それを生みだした著者の精神世界ではないのです! テキストが私たちにもたらす「世界」なのです。著者はもう居なくてもかまわないのです! 著者が可哀そうですね。私も著者としてだいぶ本を書いてきましたが、リクールの言葉は、「著者としての私」には辛いです。なにしろ、自分が伝えようとする事柄が、読者にうまく伝わらなくてもいいのですからね。しかし同時に、私は読者でもあります。「読者としての私」には嬉しいですね。なにしろ、著者に縛られることなく、自分の好きなようにテキストを解釈していいのですからね。

 

dokusyo01.jpg 重要なことは「このテキストの前に広がる世界と私たち読者がいかに関わるか」ということです。

 さて、リクールは「最終的に〔読者としての〕私が同化するものは世界の提起である」といいます。この「同化」というのは「自分のものにする」とか「一体になる」とでも看做しておきましょう。テキストはそれ独自の「世界」読者にもたらすのですが、この提起された世界はどこにあるのでしょう。一般的には「そうした世界はテキストの背後にある著者の精神世界である」「世界というのは著者の精神世界であって、それがテキストによって読者に示されるのである」と考えられるでしょう。

 しかし、リクールは「世界はテキストの背後にあるのではなく、作品が展開し、発見し、露呈するものとして、テキストの前にある」と断じています。もう著者は居なくてもいいのですから、先に述べたように、問題は「このテキストの前に広がる世界と私たち読者がいかに関わるか」ということです。

 

主体的読書

 ここで、リクールから少し離れます。彼が自分の論文「解釈学の革新」を書いてそれが出版されたら、もう彼は居なくていいのですし、その論文がもたらす世界と筆者がいかに関わるかは、私自身の問題です。ですから、リクールから離れても問題ないはずです(笑)。

 重要なのは、「読者の力量がためされる」「本の中に自分を読みこんでいる」ということです。もちろん、これがすべてではありません。しかしながら、本が切り拓いてくれる世界にどれだけ深く入り込んでいけるか、本のどこをどう読むか。こうしたことは、すべて読者たる私たち自身の問題です。1つのテキストには無数の解釈の可能性があります。そうしたなかで、私たちはいかに本と向き合うか/向き合えるかが、大切なことです。読書から何を得るか、これはすべて私たち自身の力量によるでしょうね。

 

おわりに

 今回は、リクールの哲学を参照しながら、「著者不在の読書論」を展開しました。誤解のないように言っておきますが、やはり、「著者の精神世界」にできるだけ近づくタイプの読書もあっていいと思います。実際に、私はウィトゲンシュタインという哲学者の宗教的な感性を、できるだけ忠実に再現する仕事もしたいと思っています。

 著者から離れて自分の力量で主体的に読む読書と、自分をおさえて著者の精神世界にできるだけ入っていこうとする読書。この2種類の読書が車の両輪のように働いてくれると、豊かな読書生活を送ることができるような気がします。いかがでしょうか?

 次回のアップは、5月1日です。鯉のぼりの季節ですね。華麗な錦鯉の話をしましょう。美しい錦鯉を素晴らしい日本庭園で泳がせれば、時間を忘れる総合芸術の世界が広がります。

 

星川啓慈

 

【参考文献】

P・リクール(久米博ほか編訳)『解釈の革新――疎隔の解釈学的機能』白水社、1978年。

 

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