学部・大学院FACULTY TAISHO
国際文化コース
カルスタ、あれこれ(23)――『源氏物語』は「不倫物語」か?
はじめに
ご存知のように、『源氏物語』では光源氏を中心に男と女のことが書かれています。しかし、これは本当に恋愛物語なのでしょうか?
ある先生に伺ったところでは、『源氏物語』を読み解くためには多くの知識が必要だそうです。たとえば「政事=性事」という視点――「政治に関わる事柄と性に関わる事柄とは深い関係にある」という視点――が求められるということでした。また、政治的な視点から『源氏物語』を読み解くと、ものすごくクリアに読み解くことができるそうです。さらにいうと、『源氏物語』は政治小説であって、「男女のことは付け足しにすぎない」という解釈まで成立するそうです。当時のことを知れば知るほど、『源氏物語』は相貌を変えてくることでしょう。
『源氏物語』をめぐる政治的視点からの解釈などは専門家にお任せするとして、今回は『源氏物語』を題材に、「異文化誤解」について考えてみましょう――「理解」ではなく「誤解」ですよ。その後で、人類が享受しつつも悩み抜いてきた「恋愛」について考察を広げていきましょう。
後ほど紹介しますが、哲学者のショーペンハウアーは恋愛感情を「狂気」だとしていますし、人間の恋愛感情は生物学的次元を超越した「人間独自の領域」を構成しています。
「文化」というものは取り留めのないもので、どういうものかはなかなか理解できません。「文化」の定義も学者によって違います。それは授業で再三述べているとおりです。たとえば人類学者のクラックホーンは、次のように文化を定義しました。
文化は人間の生活環境そのものである。文化は人間生活のあらゆる面に影響を及ぼし、変えていく。文化は人格であり、さまざまな表現の仕方であり、考え方であり、行動の様式であり、問題の解決方法であり、政治組織の運営方法なのである。しかし、あまりにも当然のこととして受けとられているために、ほとんど問題にされていない側面が文化にはある。しかし、それが深いところで、知らぬ間にわれわれの行動様式に影響をおよぼしているのである。(鍋倉『異文化間コミュニケーション』から引用)
長い定義ですが、われわれのものの見方・考え方が「文化」によって影響を受けていることはわかるでしょう。現代の日本の文化と平安時代の日本の文化とは、「日本の文化」という点では共通していますが、文化は時代とともに変容していきます。そうすると、同じ日本人でも現代の日本人と平安時代の日本人では、異なった文化の中で生きていることになります。宮廷文化の中で生きている人と庶民文化の中で生きている人も、違う文化の中で生きていることになります。
『源氏物語』は「不倫物語」か?
筆者が担当している「現代倫理学」の授業で「愛/恋愛」について講義しましたが、その授業の準備をしているときに、偶然「『源氏物語』は不倫を扱った作品だ」という見解に出会いました。そして、この場合の「不倫」とは「人の妻を寝取ること」と説明されていました。皆さんは、『源氏物語』は「不倫物語」だと思いますか? そう思う人も多いでしょう。 しかし、単純にそのように見なしていいのでしょうか? こうした見解は間違いだと思います。
平安時代には、現代のように、一種の契約関係に基づく「一夫一婦制」という制度はありませんでした。たとえ正妻は一人であっても、複数の妾をもつことは公然と認められていたのです(一妻多妾)。だとすれば、当時は一種の「一夫多妻制」であり、かつ「招婿婚/妻問婚」でした。現在の日本の社会通念では、「不倫は一夫一婦制から逸脱した男女関係」ですから、一夫一婦制の存在が前提となります。ということは、単純に私たちのものの見方・考え方で『源氏物語』を理解してはいけない、ということです。
当時、「一夫一婦制」という制度も言葉は存在していませんでした。また、当時、現代の意味における「不倫」という言葉もなかったでしょう。ということは、「一夫一婦制から逸脱した男女関係」としての「不倫」は当時存在していなかったということになります。かりに「不倫」が存在していたとしても、現代日本の「不倫」とは別のものだと考えるべきです。
これは、皆さんには納得がいかないかもしれません。しかし、「人権」という言葉のないところには「人権」はありません。「社会」という言葉がないところに「社会」はありません。はやい話が、「大学」という言葉がないところに「大学」はありません。皆さんが充実した「大学」生活を送るには、校舎・授業・クラブ・同好会・教員・事務職員などが存在していても、「大学」という言葉がなければならないのです。「X」という何かが存在して、これに「大学」という名前を与えるのではありません。「大学」という言葉が「大学」を存在せしめるのです。
現代日本人の視点から単純に、『源氏物語』を「不倫物語」と解してはならないということを、これまで述べてきました。しかし、恋愛感情ないしそれに類するものは、人類の歴史とともに古くからある、というのも事実でしょう。文化によって、時代によって恋愛の形態に差異があることは当然ですが、そうした差異を超えて、人間は男と女の問題で悩み続けてきました。
恋愛感情は「狂気」である。
ショーペンハウアーは『愛と性の苦悩』において、恋愛感情を「狂気」だとしています。思い当たる読者もいることでしょうね。しかし、この狂気の根底に潜むものは「種族」保存の本能だとして、次のように述べています。
男が自分に適した美しさをもつ女を見たとき、目のくらむような狂気に捕えられて、この女と一つになることを最高の幸福と思うのであるが、この狂気こそ種族の感覚であって、はっきりと現われた種族の特徴を認識して、それをもって種族を永続させようとするのである。種族の典型の維持は、この美に対する決定的な愛着にもとづく。それゆえ、この愛着はきわめて大きな力をもって働くのである。…ここで人間を導いているものは、実は種族のために最善を尽くすことを目的とする本能であるが、人間自身はたんに自分の享楽を高めようとしているのだと思っている。(小浜『なぜ人を殺してはいけないのか』から引用)
ショーペンハウアーは、別のところでは、狂気である恋愛感情のなせる業を生きいきと述べています。くり返しになりますが、彼は「こうした狂気は人間が自分の子孫を残すためのものだ」と言います。つまり、恋愛感情は、意識していなくとも種族保存のためであって、自分だけが楽しんでいるものではないというのです。
しかし、恋愛感情を種族保存の本能と結びつけることだけでは、人間独特の――「人間独特の」とはいっても、実際にはほかの動物の感情は人間にはわからないのですが――恋愛感情は説明しきれません。
性文化を構築する人間
「性文化」という言葉を使いましたが、男女の間で生じる種々の事柄が「文化」を生み出すことも事実です。
古来、洋の東西を問わず、愛・恋愛・信頼・不倫・嫉妬・裏切りなどが、文学作品において題材とされてきました。シェイクスピアの『オセロ』、トルストイの『クロイツエルソナタ』、ホーソンの『緋文字』、藤沢周平の『海鳴り』など、愛・恋愛・信頼・不倫・嫉妬・裏切りなどを扱った傑作は、あげればきりがありませんね。
どうして、人間はこれほど男と女の間のことを問題にするのでしょうか。それは、生物学的にそういうふうになっているのです。大学生時代に、動物行動学者のD・モリスの『裸のサル』という本を読みましたが、これなどを読むと、いかに人間が性的に特殊な動物であるかがわかります。
魚類・昆虫などもふくめて多くの動物には、種族を残すための交尾期があります。哺乳類の場合、エサのない時期に子どもを産んでも、その動物の子どもは死んでしまうでしょう。しかし、人間には特定の交尾期がありません。家で飼っているペットのように交尾期がない動物もいますが、そういう動物たちでも、基本的に、交尾するのは種族保存のためです。しかし、人間は種族保存以外の目的でも行為に及びます。つまり、性行動をめぐっては、他の生物と人間はかなり違うのです。
こうしたことについて、評論家の小浜逸郎氏は次のように論じています。
人間の性は、他の動物たちのそれが季節の巡りや生殖のサイクルという自然秩序に組み込まれているのに比べて大きく逸脱している。それはおそらく、発情期の喪失によって根づいた人間に特有の性観念の肥大化に起因している。男女の関係意識は、生殖という種族の必要を超越して、実存的な主題としての個体と個体の情緒の絡まりそれ自体の世界を切り開き、深めた。このこと意味は非常に大きい。(「人を愛するとはどういうことか」)
動物行動学や小浜氏の見解からわかるように、「発情期の喪失によって根づいた人間に特有の性観念の肥大化」が、すぐれた文学作品を世界中で生み続けてきているともいえるでしょう。これは悪いことではありません。なぜならば、その肥大化が「実存的な主題としての個体と個体の情緒の絡まりそれ自体の世界を切り開き、深めた」(小浜氏)のですから。『源氏物語』にも、この「人間に特有の性観念の肥大化」の影響があることは否定できないでしょうね。
おわりに
今回は高尚な文学作品を、生物学的な視点に関連させてみました。専門家からはお叱りを受けるかもしれませんね(笑)。しかし、いずれにせよ、現代日本に生きているわれわれの一般的な目線で、『源氏物語』を読んではいけないことだけは理解できたと思います。それは、異文化「誤解」につながります。
もちろん、先々回のブログ(著者不在の読書論)で書いたように、『源氏物語』を自分の視点から好きなように読むという読み方を、否定するわけではありません。しかし、これとは別の読み方も必要です。
星川啓慈
【参考文献】
(1)小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか――新しい倫理学のために』洋泉社、2000年。
(2)鍋倉健悦『異文化間コミュニケーション』丸善ライブラリー、1997年。
(3)D・モリス(日高敏隆訳)『裸のサ――動物学的人間像』角川文庫。