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国際文化コース

戦争と文化(6)――日本に原爆を落としたティベッツ機長と、日本のエースパイロット坂井三郎

はじめに

 昨年度のブログでお約束したように、今回は、1945年8月6日、広島市に原子爆弾「リトルボーイ」を投下した、B-29「エノラ・ゲイ」のポール・ティベッツ機長(1915年2月―200711月)の話です。ついでながら、原子爆弾に名前がついていることの意味については「武器と命名」(「戦争と文化」第3回)で述べています、覚えていますか? 彼は、アメリカでは「戦争〔太平洋戦争〕を終わらせた英雄」とされることが一般的です。

 

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  ちなみに、孫のポール・ティベッツ4世は、2005年現在、アメリカのステルス爆撃機B-2のパイロットです。

 

世界の撃墜王――坂井三郎

 太平洋戦争では、日本の「零戦/ゼロ戦」(零式艦上戦闘機)も活躍しました。そうした中で、坂井三郎(1916年8月―2000年9月)という名パイロットが日本にもいました。彼は、戦艦の砲手をふりだしに、最終的には海軍中尉まで昇進しました。太平洋戦争終結時には、海軍少尉でしたから、ここでは「坂井少尉」と呼ぶことにしましょう。坂井少尉は太平洋戦争終結までに、大小64機(異説あり)の敵機を撃墜したといわれています。『大空のサムライ』という世界的ベストセラーも出版しています。真偽のほどは確かめていませんが、イラク空軍では、アラビア語の翻訳書をパイロットの必携の書としていた、という話もあるくらいです。

 その坂井少尉は、撃墜した飛行機の数を自慢するのではなく、「一度も飛行機を壊したことがないこと」「自分の僚機(小隊の2・3番機)の登場員を戦死させなかったこと」などを誇りにしていたようです。ちなみに、「僚機の被撃墜記録がない」のは、第二次世界大戦の「歴戦搭乗員」(ほとんど出撃しないならば危険も少ない)では、世界中で少尉ただ一人といわれています。さらに、戦闘機同士のある激戦では、日本側は24機も撃墜された中、米軍のヘルキャット15機の一斉射撃を受けたにもかかわらず、一発の被弾痕も発見されなかったといわれています。

 

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  しかし、それほどの坂井少尉でも、頭部に被弾することもありました。致命症はまぬかれたものの、目の視力を0.7にまで落とし、パイロットとしては致命的なハンディキャップを負いました。もっとも、頭部被弾のおかげで左腕はマヒ状態にあり、計器すら満足に見えないなかで生還できたこと自体が奇跡的なことですし、失明しなかったことも幸運といえるでしょう。普通ならば、それでもう戦闘機に乗ることはなかったでしょうが、少尉はふたたび戦闘機の操縦桿を握ることになります。

 ティベッツ機長の話をするのに、坂井少尉の話にばかりなってしまいましたね。

 

ティベッツ機長と坂井三郎の握手

 さて、1983年、米国アラバマ州の空軍指揮幕僚学校卒業式で航空200年祭がひらかれました。そのとき、坂井少尉が招待され、司会者に「ティベッツ機長の参加・同席を、被爆国民としてどう思うか」と質問されたそうです。問題は、その時の彼の答えです。

少尉は次のような主旨の答えをしました。

軍人として命令を受けた以上、任務を遂行するのは当然である。仮に自分が日本軍人として原爆投下を命令されれば実行したであろう。原爆投下の道義的責任はハリー・トルーマン大統領にある。

かつての軍人らしく、極めて明快な回答ですね。

これを聞いたティベッツ機長は「涙を浮かべて坂井と握手した」と伝えられています。

 

アメリカでの機長の評価

日本と同じく、アメリカでも第二次世界大戦を知らない人びとが多くなっています。それでも、大戦を知っている退役兵とその家族を中心に、多くのアメリカ人がティベッツ機長を「偉大な愛国者」「真のアメリカンヒーロー」と見なしているようです。もちろん、そうでないアメリカ人もいることでしょうが、これが彼の一般的な評価です。

ティべッツ機長が亡くなった後、1週間で300ほどの電子メールが寄せられたそうですが、ほぼすべてが機長を称える内容だったそうです。たとえば、次のようなものがありました。

  海兵隊だった私の祖父は、原爆投下がなければ自分は〔日本本土攻撃で〕死んでいたと何度も話していた。私も生まれていなかっただろう。(アリゾナ州の男性)。

  原爆を責める者は…原爆は米日双方の膨大な人名を救ったことを忘れている。(バージニア州の男性)

また、コロンバス・ディスパッチ紙は、機長の訃報に次のような内容をもりこみました。広島の人びとや私たち日本人には冷徹に響きます。

 広島の死者数は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、911テロ、イラク戦争のすべての米国人死者を足してもなお届かない数だ。 〔それだけ、われわれの戦果はあったのだ。〕

 

第二次世界大戦後のティベッツ機長

 ティべッツ機長自身は、原爆投下について次のように発言しています。

     後悔などしていない。奪った人命より多くの人命を救ったことを確信している。あの兵器を所有していながら使わずに〔日本本土上陸で〕100万人の人間を死なせていたら、道義的な過ちになっていただろう。(1995年、原爆50年のアメリカのテレビで)。

     多くの人びとを殺したことを誇りには思っていない。だが、一から計画を始め、完全に実行し終えたことを誇りに思う。(1975年、アメリカのメディアに)

 機長は、太平洋戦争後、広島には訪れていません。また、上に引用したように原爆投下を肯定し続け、被爆者の方々への謝罪もしていないようです。これらについては、多くの日本人には納得のいかないところでしょう。

 ところで、ティベッツ機長の死を報道した2007年の朝日新聞の記事は、「心の底では〔機長は〕〈英雄〉になりきれなかったのだろうか」と問いを投げかけています。たしかに、その記事がいうように、機長は「栄光の名誉軍人役を終生演じねばならなかった」可能性もあります。 機長は、「原爆の機長がみっともない格好はできない」という理由で、移動の時も食事の時も、いつも背広姿だったそうです。その機長は、名誉軍人らを葬るアーリントン国立墓地への埋葬は「望まない」と明言しましたし、墓や碑も「反核運動で壊されかねない」と拒みました。そして、「葬式もせず、静かに埋葬して遺灰を大西洋に撒いてほしい」と希望したそうです。

 

海03.jpg

  ティベッツ機長は、1998年、82歳のとき回顧録を出版しますが、そのなかに「数分前まで陽光の中に鮮明に見えた都市〔広島〕が恐ろしい煙と炎の中に完全に消滅した」と書いているそうです。原爆投下当時ならば、任務を遂行し終えた訳ですから、機長の目に、その「炎」は「輝かしい炎」と映ったかもしれません。そして、それが時間の経過とともに「恐ろしい炎」と変化していったのかもしれません。また、多くの日本人には言い訳に聞こえるかもしれませんが、機長は「私は広島や長崎の人を相手に戦っていたのではなく、われわれを攻撃した日本という国と戦っていたのだ」と1995年に朝日新聞に話しています。さらに、2003年にはアメリカの新聞に「戦争に道徳なんてない。国家紛争の解決の手段としての戦争はなくす道を探すべきだ」と話していますし、好戦的な思想には否定的な見解を持っていたとされます。

 一人の人間の精神世界など、他人にわかるはずはありません。もちろん、ティベッツ機長の場合も同様です。それでも、いろいろと機長についての資料を読むと、彼に対する筆者の当初のイメージも少し変わってきました。

 

おわりに

 ポール・ティベッツ機長と坂井三郎少尉。二人のことは今後も長く記憶される/語り継がれるでしょう。太平洋戦争では敵と味方に分かれて戦った二人ですが、40年後には、少尉の言葉に機長は涙を流しました。この時の二人の心のうちはどのようなものだったでしょう。ここから、平和に繋がるようなことは引き出せないでしょうか…。

 それにしても、原爆は、人のいない太平洋上で投下してその威力をみせつけるとか、その破壊力を明確なかたち日本側に示すなど、有効な「威嚇」手段として使えなかったのでしょうか? 「戦争と文化」第5回のブログで紹介したように、殺人に至らない「威嚇」で止めるというのは人命尊重の観点からいっても優れた方法です。現実に広島と長崎に原爆を投下したのは、戦争とは無関係なたんなる非人道的な「大量殺人」にしか過ぎないのではないでしょうか。このように考えると、アメリカ人の「日本本土決戦で多くの人が死ななくて良かった」という意見は、原爆投下の反論にならないかもしれませんね。ただし、当然のことながら、当時の日本がそうした「威嚇」を無視する可能性もあったわけですが…。

 

追記

 ティべッツ機長は、上に引用したように「多くの人びとを殺したことを誇りには思っていない。だが、一から計画を始め、完全に実行し終えたことを誇りに思う」と語ったあと、「毎晩よく眠れる」と日本人の心を逆撫でするような発言をしています。

原爆投下について、1つ念頭におくべきことがあります。それは激戦を経験した兵士がよく陥るPTSD(心的外傷後ストレス障害)とかかわることです。筆者は心理学者でも精神科医でもありませんが、以下のように考えます。

機長は、原爆を日本に投下しながらも92歳まで生きましたし、精神的障害に陥ったというような話もありません。おそらく、これは「殺人への抵抗」と「殺人する距離」という問題と関係があるでしょう――もちろん、機長の精神的強靱さも考慮しなければなりませんが。

第二次世界大戦で爆弾を投下した経験をもつあるパイロットは「私の投下した爆弾が〔中略〕ここに引き起こした悲惨な死を、思い描くことができなかった。私には罪悪感もなかった、達成感もなかった」と回想しています。これはグロスマンの『戦争における〈人殺し〉の心理学』からの孫引きですが、この著作には、「最大距離および長距離からの殺人――後悔も自責も感じずにすむ」という章(第14章)があります。章のタイトルですから、額面通りには受け取る必要はないとしても、やはり「殺人する距離がおおきくなればなるほど、殺人への抵抗感が減退していく」という一般的な傾向はあるでしょう。銃剣や刀で眼前の敵を殺傷するのと、はるか上空を飛行する爆撃機から爆弾を落として人びとを殺傷するのとでは、精神的ダメージがまったく違うのです。「常識でもわかる」といわれれば、それまでですが、こうしたことをきちんと認識するのも重要だと思います。

上記のような心理的な問題にくわえて、戦争における殺人はいわば「合法的」であるという問題もありますが、今回、この問題については触れる余裕はありませんでした。

 

星川啓慈

 

【参考文献】

(1)朝日新聞、20071110日付朝刊、国際面。

(2)D・グロスマン(安原和美訳)『戦争における〈人殺し〉の心理学』ちくま学芸文庫、2010年。

(3)「ポール・ティベッツ」「坂井三郎」、Wikipedia

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