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国際文化コース

カルチュラルスタディーズコースって何を勉強するの?④

秋学期が始まって2週間、学生たちの勉強や活動も軌道に乗ってきた様子です。秋 栗.jpg

カルチュラルスタディーズコースの1年生2年生が学生たちで開催するシンポジウム「カルスタ進歩ジウム」、その成果をまとめる論文集『私たちのカルスタ』の準備にも熱が入ってきました。2年生の企画委員を中心に熱心な話し合い、草稿の読み合わせが行われているようです。教員は「手」も「口」も出さない、というのが原則です。教員の役割は、物品の調達と会場の確保。2年生たちが、ほんとうに頼もしく、リーダーシップをふるっています。

シンポジウムの開催は12月22日です。また詳しくはこのプログでご案内します。

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さて、シリーズで発信している「カルチュラルスタディーズコースって何を勉強するの?」ですが、しばらく間が空いてしまいました。 

『レミーのおいしいレストラン』をめぐる授業の内容紹介の続きです。はやく授業紹介は終えて、1年生が書いた論文を紹介したいので、一気に授業の覚書の続きをお伝えします。(長いと思ったら、読み飛ばしてね) 次回は学生の論文紹介! 教室でいっしょに一つの話題を考えることから、豊かな論考がうまれました。楽しみにしてください。  ♪伊藤淑子

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前回のレクチャーの覚書のつづきです。

アレゴリーという効果

 物語の展開を追ってみよう。レミーがリングイニを操って作る料理は、グスト亡きあと傾きかけていたレストランの評判を救う。リングイニも、料理に対する認識を改め、レミーのロボットであることに徹するようになる。操られ方も上達し、たがいの呼吸が合う。金儲けを第一とするスキナーの企みを暴露し、厨房における教育係りであった先輩料理人コレットとレミーのあいだには、恋愛感情が芽生えてくる。

 料理の世界では絶対的な権威者であるイーゴが、料理を評価するためにやってくる。レストランの空気が張り詰めるなか、レミーがイーゴのために作るのは、南フランスの家庭料理ラタトゥイユである。レミーとイーゴの対決は、レミーの勝利で終わる。最初は出された庶民的料理に戸惑うイーゴであるが、高級な食材に手の込んだ味付けをし、装飾的に盛り付けて供された料理よりも、食材の味を活かした素朴なラタトゥイユのほうが、はるかに価値が高いことをイーゴが認めるのである。

 ラタトゥイユは料理の神髄を知り尽くしたレミーの原点回帰であるといえる。最初から何も手を加えない、というのではない。究極の手間は無作為に返る、ということを、レミーが示し、イーゴがそれに同意する。料理は哲学に通じ、それを説くのはネズミであるレミーにほかならない。

 物語の筋をたどると明らかになるように、『レミー』にはアレゴリーの手法が活用されている。だれも見落とすことがないのは、料理の神様としてレミーが敬ってやまないグスト、英語読みすれば「ガスト」が、「味」を表わしていることだろう。スキナーは文字通り「詐欺師」を意味し、実際にレストランの知名度だけで破格の値段のレトルト食品を売ろうと、まさに詐欺まがいのビジネスを企んでいる。イーゴはエゴ、自尊心と自我によって成り立つ辛辣でプライドの高い料理批評家である。

 リングイニはパスタの一種である。スパゲッティの断面は丸いが、ソースが絡みやすいようにリングイニは楕円形をしている。イタリアのパスタの名前を持つ青年が、コック帽にネズミを潜ませて、とはいえ、フランス料理を先導してくというのも、イタリア料理とフランス料理の関係を思い起こすと興味深い点である。

 格式高い正餐の筆頭に挙げられるフランス料理であるが、フランスが食文化の頂に立つ背景には、フランス王アンリ2世とフィレンツェのメディチ家出身のカトリーヌの結婚がある。1533年の婚姻に際して、カトリーヌ・ド・メディシスは優れたイタリア料理の調理方法をフランスでも味わえるように、料理人を伴って嫁ぐ。アンリ2世の死後、王位を継承した子どもたちの攝政として政治を行うなど、カトリーヌは権勢を振るうが、ヴァロア朝はカトリーヌの死後まもなく途絶える。その後のブルボン朝において、宮廷料理としてのフランス料理はさらに洗練されていく。ブルボン朝が1789年のフランス革命で倒れると、職を失った宮廷料理人がレストランを開業する。限られた王侯貴族だけに享受されていた文化が、一般市民に開かれるのである。大富豪とはいえ、商人の娘にすぎないカトリーヌがフランス王宮にもたらした文化が、さらに洗練されてふたたび市民に返されたといえる。ブルジョアたちの嗜みとなったフランス料理は、20世紀になると、一品ずつを給仕するコース料理として完成する。

 レミーの助けを借りながら、リングイニがフランス料理の名門レストランの新しい担い手となるというのは、フランス料理がフランスで生まれたものではないことを寓  意的に示しているといえるだろう。フランス料理は外部の文化からの働きかけによって発達したものであり、フランスで発生し、フランスの閉じられた文化圏で育まれたものではない。料理にかぎらず、純粋な文化という幻想は、のちの国民国家のナショナリズムが植えつけたものにすぎない。

 このように寓意性が並ぶと、レミーやコレットという名前にも、アレゴリーの仕掛けを探してみたくなる。味を判定する高度な力を持つレミーから、高級コニャックの銘柄である「レミー・マルタン」を想起することもできる。あるいは味覚の伝道師でありたいというレミーの願いからは、フランク王国の最初の王であるクロヴィス1世に496年に洗礼を授け、フランス、スイス、ベルギー、オランダ、ドイツにあたるガリア地方への布教を行ったカソリックの聖人レミギウスを連想することもできる。

 男性中心の料理の世界にあって野心を隠そうとしないコレットには、フランスの女性作家シドニー=ガブリエル・コレットをあてはめてみることもできる。20世紀はじめから半世紀にわたる作家活動をし、性の解放を唱えたコレットは、フェミニズムの地平を切り拓いた女性の一人であるといえるだろう。『レミーのおいしいレストラン』のコレットは、いつのまにかリングイニを助けるパートナーに変身し、男性社会に対する怒りは消化不良のままリングイニとの口づけで雲散霧消してしまうのであるが、少なくとも物語の冒頭部分においては、性別役割分担という前提に正面から挑もうとしている。公的な場や権威から女性を排除しようとする社会に対する憤懣こそが、女でも男に引けを取らず成功者となりうることを示したいと、コレットを駆り立てる。

 

エミールと『エミール』

 コレットの怒りを含んだ強気は、物語の序盤において、リングイニの料理に対する消極的で無責任な態度を引き立てる役割を果たしている。コレットの実力と成功への強い意志は、自信もなく、技術を磨こうとする姿勢もなく、料理に対する意識も薄弱なリングイニの優柔不断さを際立たせている。

 ところがコレットの覇気は、リングイニがレミーと組んで繊細な料理を作り、高い評価を得るのと反比例するように影を潜め、コレットはリングイニとレミーの連携作業の協力者になっていくのである。コレットの男社会に対する怒りと自立への志向は、どこに回収されていったのだろう。

 この変化のパターンは目新しいものではない。勝気で奔放な少女が、やがて快活ではあるが、従順な伴侶になるというのは、むしろ定番であるともいえる。『若草物語』(1868)の男勝りの作家志望のジョーも、『赤毛のアン』(1908)の自尊心の強いアンも、『足長おじさん』(1912)の想像力豊かで自立心の強いジュディも、物語の終盤には自分の恋に気づき、人生の最良のパートナーを身近に発見したことを喜び、自分の夢を遂行するよりも、妻となって伴侶を支える選択をする。

 強気の女から内助の功型のパートナーへのコレットの変容を、レミーの兄の名前エミールへと結びつけてみよう。エミールという名前は、日本でいえば太郎にでもあたるような、ごく一般的な男子名である。その名前を与えられた兄ネズミは、料理の天賦の才を持つ弟ネズミにくらべて、穏やかな性格だけが取り柄の平凡そのものといった存在である。

 そのありきたりの名前を題名に掲げるのが、ジャン=ジャック・ルソーの著作『エミール』(1762)である。孤児エミールの出生から青年期までの成長を追う教育論は、人間の理想的なあり方を説くものであるが、ここでの人間とは男のことにほかならない。

 階級や身分によって人間が社会的に等級化されていた時代に、市民としての個人が尊重されることを唱え、基本的人権の礎の一つともなるこの書物が、男子の成長だけを描いたからといって、その意義を失うものではないことはたしかだろう。人為的な教育を排した自然のままの成長を尊び、ありのまま人間性を賛美し、人間の本性を尊重する教育のあり方は、画期的な近代の人間観を打ち立てたといえるだろう。

 それでも問題にしたいのは、『エミール』のなかで説かれる女性の教育である。エミールが一人の人間として完成するためには、男性であるエミールを補完する理想的な女性が必要であるとし、エミールの伴侶としてのソフィの教育が論じられるのである。「強く活動的」である男性に対して、「弱く受動的」であるのが女性であり、「力と意志」は男のもの、女はそれに対して従順であり、男の力を引き出すように自分の魅力を使うことが、愛の法則よりもさらに古い「自然の法則」だとルソーは説明する。

 「女は男のために存在する」というルソーのことばは、いまそれだけを耳にすれば茶番劇のようでもあるが、この単純な原理を物語が否定するのは、それほど簡単なことではない。18世紀の近代思想のなかに埋め込まれた男女の役割は、21世紀のアニメ作品『レミーのおいしいレストラン』にも息づいている。コレットの自立への強い意志は、自分の技量には及ぶことのないリングイニを支えるための献身へと変わっていく。そこに物語上の違和感も不自然さも発生しないことにこそ、驚くべきではないか。

 

物語を動かす小さく弱い者

 『レミーのおいしいレストラン』の原題は『ラタトゥイユ』である。レミーはクマネズミ、つまりラットであり、言葉遊びの効果も込められている。小さくて弱いネズミがプライドの高いイーゴをねじふたり、レミーとリングイニという種を超えた絆を描いたり、アレゴリーによって登場人物の役割を浮き立たせたり、『レミーのおいしいレストラン』には物語を動かすための仕掛けがたくさんある。

 ネズミが料理をするという奇想天外さもその一つであるが、ネズミが物語の主軸となること自体は珍しいことではない。強い者が勝利を収めても、そこにドラマティックな展開は期待できないが、もっとも弱い者が逆転の勝利を果たすとき、カタルシスと感動が生まれる。

 『レミーのおいしいレストラン』はディズニーの制作であるが、同様のことは、ディズニーが生み出したミッキーマウスにもいえる。ミッキーマウスは1928年のトーキー作品「蒸気船ウィリー」で人気キャラクターとなり、ディズニーのシンボル的存在となる。初期の作品に登場するミッキーマウスは、目の大きな笑顔のミッキーマウスとは違い、細長い鼻と長い尾が目立つネズミらしいデザインである。調子にのっていたずらをしては失敗を繰り返し、ペナルティも受ける。ネズミよりも強いネコは、ミッキーマウスのいわば上司である。

 「蒸気船ウィリー」は7分ほどの短いモノクロ作品であるが、視覚と聴覚、絵の動きと音楽が完全にシンクロさせて、映像時代の新しい表現の魅了を発揮してみせる。アニメーションは身体の現実を解放し、伸縮自在にキャラクターを描き出す。手足は伸び、胴体は切り離されてもすぐに再生し、立体は平面に逃れる。身体とは何か、というポストモダンなラジカルな問いを、ミッキーマウスのいたずらは前衛的に笑い飛ばしているかのようだ。ファッションや化粧や、ダイエットや筋トレ、身体を意のままに操ろうという現代の強迫観念とは無縁のキャラクターたちが、自在に身体の伸縮と変形によって、身体性の呪縛から軽々と逃れていく。

 ミッキーマウスが、ラットよりもさらに小さなネズミであるマウスとしての弱さと、弱いがゆえの機転と知恵を有する存在として登場したことは、その後のミッキーマウスの変容にとって重要なことだ。ディズニーはアメリカを代表する産業の一つであり、世界中にミッキーマウスは知られている。ミッキーマウスがアメリカのキャラクターになるためには、その出自は野卑でなければならない。高貴なる血を引き継いだ者が、何かの事故によってあるべき場所から追われ、やがてさまざまな運命の修復が行われて元来の位置に戻るという筋書きは、シェイクスピア後期のロマンス劇からトールキンの『指輪物語』まで、さまざまなバリエーションを施されて出現する展開ではあるが、それはアメリカの物語ではない。身分制度も階級制度もないはずのアメリカにおいては、身体一つでやってきた移民が自分の才覚だけで夢をかなえていくことが、成功物語の原理でなければならない。いたずら者のネズミが、ディズニー産業に君臨するミッキーマウスへと変貌を遂げることこそ、じつは理想的なアメリカン・ドリームといってもいいだろう。

 いわゆるジャンルとしてのファンタジーと、ヒーロー物語の差異もここにある。ファンタジーがしかるべき人物がしかるべき場所にたどりついて本来の秩序と調和を取り戻すことを物語のゴールとするのに対して、ヒーロー物語は、とうていその位置には到達不能であると思われた者の美徳を開花させ、偉業を成就させることが物語の軸になる。簡略化しすぎることを恐れずに述べるならば、ファンタジーがヨーロッパ的な円環の叙事詩であるとするならば、ヒーロー物語はアメリカ的な上昇の叙事詩であるといえるだろう。

 田舎者のネズミからフランス料理界の名シェフへと才能を開花させていくレミーの逆転は、小さくて弱い者から実力者への変容という意味において、基本的には、アメリカ的な物語の推進力によって支えられているといえる。フランスという場所で、フランス料理という題材を用いながら、『レミーのおいしいレストラン』はアメリカの物語を綴っているのである。

 成功の頂点にたどり着いたその瞬間に、名声が崩れ落ちることは、物語の成立を損なうことではない。レミーを頼って集まっていたネズミの大群の存在が明らかになると、レストランの評判はまたたくうちに地に落ち、客も来なくなるが、レミーのミッションは権威を得ることではない。レストランはつぶれてもかまわないのだ。そのことによって、おいしさが否定されるわけではない。イーゴはレミーのラタトゥイユに完全勝利の軍配を上げている。その事実は消し去られることはない。

 コレットの男性社会に対する怒りは、恋愛に吸収されてしまうが、小さなネズミの悔しさは物語のメインモチーフとなり、権威主義的なフランス料理界に一つの革命をもたらす。リングイニとレミー、そしてコレットは、気取らずに料理を楽しめるビストロを開店させ、物語はハッピーエンディングを迎えるのである。

 『レミーのおいしいレストラン』が否定したものはフランス料理の格式ではあるが、フランス料理そのものではない。高級レストランから街角のビストロへ、文化人を自負するブルジョアから大衆へ、料理の文化が開かれる。より多くの人が、平等に、民主主義的に、料理という快楽を享受することができるようになることは、ヨーロッパ的なるものをアメリカ化することにほかならない。ネズミによる成功物語の完結は、アメリカの物語として幕を降ろす。

 

主体性の溶解と不安定なエンディング

 しかしそのハッピーエンディングが、実に不安定なものであることを看過することもできない。ビストロの開業を祝い、リングイニもコレットも忙しく働いているが、仕事のいわば心臓部にいるのはネズミのレミーである。レミーの操作を受けなければ、リングイニは評判の料理を提供することができない。

 ネズミの寿命と人間の寿命は大きく異なる。どのように心の通うコンビになったとしても、ネズミと人間が共有できる時間は限られている。司令官であるレミーの命が尽きたとき、ロボットとして身体を提供していたリングイニに、新しい試練の物語が始まることになる。サステイナブル(維持可能)というのが、今日の理想的なビジネスモデルであるとすれば、それとは正反対の刹那的な調和と成功を表わしているのが『レミーのおいしいレストラン』である。

 ディズニーは『レミーのおいしいレストラン』の他に、飲食店の開業でハッピーエンディングを迎える物語『プリンセスと魔法のキス』(2009)を制作している。主人公ティアナが黒人の少女であるという点が、話題を呼んだ作品でもある。非白人の架空の小国の王子が呪いをかけられ、カエルになった王子とキスをしたティアナもカエルになってしまう。魔法の異化は最近のディズニーがよく採用する手法であるが、魔法を解くはずのキスが、逆に魔法を増幅してしまうという着想は、E・D・ベイカーの児童文学作品に基づく。『プリンセスと魔法のキス』は舞台を1920年代のニューオーリンズに置くことによって、おとぎ話のトーンにリアリズムの具体性も加え、人間に戻った王子とティアナがレストランを開業するという、きわめて現実的なエンディングを用意している。

 『レミーのおいしいレストラン』と『プリンセスと魔法のキス』が、ともに家族経営のレストランの開店でクライマックスを迎えることは興味深い。観客の嗜好性をマーケティグすることに長けているディズニーであるが、いま大衆が描くアメリカの成功のイメージの一つが、ファミリービジネスであるのかもしれない。『魔法にかけられて』(2007)もおとぎ話と現実のニューヨークが井戸と下水でつながっているという設定のもとに、おとぎ話のヒロインがニューヨークで恋愛を成就し、家族でファンシーショップを経営するというエンディングになっている。

 だからこそ『レミーのおいしいレストラン』の不安定なエンディングは、見る側にさまざまなことを考えさせる。敏腕の弁護士がサポートする『魔法にかけられて』のファンシーショップは、まず順調な経営が見込めそうである。小国とはいえ一国の王子をレストラン経営のパートナーにしてしまう物語展開には驚くものの、ティアナは幼いころから父親の指導を受け、料理の腕を磨いてきたことになっている。『プリンセスと魔法のキス』のレストランも安定した営業を展開できるはずだ。リングイニとレミーだけが、このなかで特異な存在である。

 『レミーのおいしいレストラン』は限りなく主体性が消えていく物語でもある。料理を作っているのは誰だろう。身体を動かすリングイニか、リングイニに指示を出すレミーか、あるいはレミーの信奉するグストか。レシピを残した者、そのレシピにさらに直観的な創意を加える者、それを形あるものに作りあげていく者、そのいずれに行為の主体性は由来するのだろうか。味を評価しているのは誰だろう。料理を作る者か、料理を出された客か、それとも料理評論家の権威か。味はどこに存在するのだろう。食べ物に味は含まれているのか、それとも食べられるときに食べる者の味覚に発生するのか。

 料理されなくても食べ物は味を持つ。そう前提しなければ、食材に値段をつけることもできない。少なくともシイタケとマツタケに大きな価格差を設ける現代の市場は、食べ物の方が味を保有するという前提に立っている。

 自分が作っているという錯覚、自分が味わっているという思い込み、自分が味を評価しているという幻想のうちに、主体性は容易にそれぞれのあいだをすり抜けていく。食べるという行為は一見食べ物に対する侵害であるように見えるが、いったん胃袋のなかに取り込まれた食べ物は、身体に対して上位に立つ。身体に取り込み、味わい消化していると思っている者の身体を、食べ物は栄養となって養うこともあれば、毒となって侵害することもある。

 不潔な存在として疎外され、最も弱い哺乳動物であると記号化されたレミーの悔しさ、女性であることがハンディキャップになる料理の世界で自己実現を図ろうとするコレットの闘志によって立ち上がった物語は、レミーとコレットの欠損部分にリングイニを、前者にはロボットとして、後者には恋人として補完し、エマニュエル・レヴィナスの哲学に現れるような現象哲学的な「主体とは何か、他者とは何か」という問いを発しつつ、主体性の消える場所へと収束し、時限的な成功を得て終わる。

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最後まで読んでくださった方、ほんとうにありがとうございます。この内容の授業をもとに、学生たちは、①『レミー』をアレゴリーとして読解するおもしろさを自分のことばでまとめ、②登場人物(動物)のなかからもっとも気になる人物を選び、③その人物(動物)がどのような記号の役割を果たしているかを考え、④『レミー』を成り立たせている文化的な前提を考察する、という課題に取り組みました。

字数制限は2000字、授業で話したこと、パワーポイントの資料に乗せたことは、自分で思いついたかのように書いてもいいが(この授業にかぎって、です)、本やサイトなどで調べたことは引用のルールを守る、ということを条件にしました。

次回を楽しみにしてください!

 

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