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これがカルチュラル・スタディーズだ!――伊藤淑子先生の新著『ファンタジー、空想の比較文化』(新水社)を読む

新年度を迎え、大学は活気づいています。それぞれの抱負を抱き、カルチュラルスタディーズコースの学生たちも新年度のよいスタートをきりました。

さて、3月に上梓した拙著を、星川啓慈先生が評してくださいました。 

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カルチュラル・スタディーズとは何か?

 最近の人文系・社会科学系の学問を見て思うことは、悪くいえば「混乱している」、良くいえば「新たなチャレンジングなものが出てきた」ということである。

 「カルチュラル・スタディーズ」(以下、カルスタと略記)も、そうした状況の中で生まれ、そうした状況を作り出してきた。カルスタを一義的に定義することはできない。かといって、「何でもあり」というわけでもない。これには、独自の歴史と目的がある。

 カルスタの目的や特徴にはいろいろとあるのだが、1つだけ挙げておこう。カルスタの目的の1つは「文化の複雑さを理解し、文化が表現され、実践される社会的・政治的な文脈を分析すること」である。

 また、カルスタはあらゆる分野からあらゆる方法(論)を取り入れて、目的に応じた使い方をすることも、確認しておきたい。

 伊藤先生の本は、こうしたカルスタの目的や特徴をきちんと踏まえて書かれた本である。だから、今回のブログのタイトルを「これがカルチュラル・スタディーズだ!」としているのである。ファンタジー.JPG

本の全体的な構成

 さて、本の紹介に移ろう。

 伊藤先生は長年にわたって、大正大学で「ファンタジーの生成」という授業を担当されてきたが、この本はその授業から生まれた。

 本には、「21世紀の子どもたちの〈正義〉のテクスト『ONE PIECE』から始まって、「〈シンデレラ〉物語と近代パラダイムの再生産」まで、合計13のアカデミック・エッセイが、4つのグループに分けられて収められている。つまり、「現代のファンタジー」「児童文学のファンタジー再発見」「バレエ・オペラのファンタジー」「昔話の世界」である。

 ファンタジーは「メディアの境界もジャンルの境界も超える」。だからこそ、楽しい。しかし、「物語を楽しみ、それを分析するには、1つの価値観にとらわれない柔軟な思考力が必要である」。カルスタの学生には、何よりも、柔軟な思考が求められるゆえんだ。伊藤先生の本を読めば、先生自身の思考の柔軟性が随処に見られる。また、その知識の広さにも驚かされる。

 

ファンタジーのパターンと人気の背景

 伊藤先生によれば、ファンタジーには1つのパターンがある。つまり、「ヒーローは勇気をふりしぼって試練に立ち向かい、使命を達成する。そして混乱して分断していた世界に調和がふたたびもたらされ、折り合うとは思えなかったものが和解する」のだ。

 また、現在はファンタジー・ブームだが、その背景には「安心して楽しむことのできる物語を取り戻したい、という欲求がある」と伊藤先生は推測する。ファンタジーが描く「わかりやすい物語が、いま求められている」ということだ。今の複雑でシビアな世相を思い浮かべると、よく理解できる気がする。

 さらに、伊藤先生は、ファンタジーが求められる背景には「想像力のコントロールを取り戻したい」という欲求もある、と指摘する。現代は「空想よりも科学技術や医療技術のほうが先を行く時代」である。われわれの想像力など、ちっぽけなものになり下がってしまった。われわれには「自分の想像力の及ぶ範囲で物語を楽しみたい」「自分の想像の範囲に物語をおいておきたい」という潜在的な願望があるのだろう。だからこそ、わかりやすいファンタジーが人気を集めているのに違いない。

 

「シンデレラ」は近代の教訓

 本の全体的なことがらについてはこれくらいにして、次に、1つだけエッセイをとりあげてみよう――「〈シンデレラ〉物語と近代パラダイムの再生産」をとりあげたい。

 筆者は「シンデレラとはどういう意味か」などとは思ってもみたことがない。しかし、この言葉は「シンダー+エラ」と分解できるらしい。つまり、「灰をかぶったエラ」という意味だそうだ。

 シンデレラは、かまどの灰にまみれながら働き、それでも、悲運を嘆くことも継母たちを恨むこともなく、毎日コツコツと働き続ける…。そこで、伊藤先生は、「シンデレラ」を「努力をもっとも重要な美徳とする近代のパラダイムと相性のよいおとぎ話」として論じる。

 「努力」。毎日聞く言葉である。著名な人はみんな「努力」している。著名とまではいかなくても、われわれの周りには毎日「努力」している人はいっぱいいる。われわれはそうした人々を尊敬するし、自分もそうなりたい、と思っている。

 こうしたわれわれの意識の背後を衝くのがカルスタだ。伊藤先生はこう語る――「近代というシステムは、特別な天才だけではなく、ごく普通の平凡な人間にも、努力することを求める」「近代ほどあらゆる人間に努力を求めた時代はない」と。

 この「求める」というところが大切である。われわれは、近代のシステムによって思考パターンが決定されているのだ! 自分が自分で「努力の大切さ」を認めているように感じられるが、実は、近代システムによってそのように思いこまされているのだ。脅迫観念のように、「継続的な努力こそが成功の秘訣であると、幼い子どもから大人まで、アマチュアからプロフェッショナルまで思っている」のである。

  誤解のないようにおくが、だからといって、筆者は「努力」を嘲笑するつもりはない。自分なりにそれなりの努力はしてきたつもりだし、やはり、努力することは素晴らしいと思う。このことに偽りはない。やや難しいことをいうけれども、「努力」そのものの価値と、それに対する意識がいかにしてもたらされたかという問題とは、分けて考えるべきである。

 いずれにせよ、カルスタが教えてくれることは、われわれが「努力は大切である、素晴らしいものである」と考えることそれ自体に近代社会が大きな影響を与えている、ということである。

 読者の中には、「シンデレラをそんなふうに分析してもらいたくない」と感じる人もいるだろう。しかしながら、カルスタとはそういう学問である。その一方で、「シンデレラ」を伊藤先生の観点とはまったく違った観点から、楽しい視点から読み解くことも可能である。どういう観点に立つか、どういう手法で分析するかなどは、人それぞれなのである。

 

おわりに

 伊藤先生は、筆者に「すべて私の考えたことです。すべてがオリジナルです」と述べていた。ここにカルスタの本質が反映されているだろう。つまり、くり返しにもなるけれども、カルスタを学ぶ者は、自分の頭で考えて、自分で分析手法を編み出さなければならないのだ。これは、楽しいけれども、大変な作業である。逆にいうと、大変だけれども、実に楽しい作業ではないか。

 カルスタについて知っている人はもちろんのこと、カルスタについて知らない人も、さらには、カルスタを軽んじている人も、一読すべき本であろう。なぜなら、伊藤先生の新著は、「カルチュラル・スタディーズ」の手本のような本だからだ。

 

参考文献

(1)伊藤淑子『ファンタジー、空想の比較文化』新水社、2014年。

(2)サルダー&ルーン『INTRODUCING カルチュラル・スタディーズ』作品社、2006年。

 

(大正大学 大学院 文学研究科 比較文化専攻 専攻長  星川啓慈)

 

 

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星川先生、ありがとうございます。

過分な評価をいただいた部分は、今後の教育、研究に向かうための励ましと受けとめ、いっそう力を尽くします。

伊藤淑子

 

 

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