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国際文化コース
2014年度の「カルスタ賞」決定!
2014年度の「カルスタ賞」決定!
はじめに
カルチュラルスタディーズコース(カルスタ)では、毎年、論文集『私たちのカルスタ』を刊行しています。今回で「第5号」になりました。一区切りですね。
これは、年度ごとの企画委員の人たちの熱意と頑張りによるものです。昨年度の企画委員の人たち、本当にありがとう!
今から、2014年度の「カルスタ賞」の最終選考の結果を、皆さんにお伝えします。
表彰式は、5月29日(金曜日)に行われました。
左から銀賞の佐野さん、金賞の菊地さん、銅賞の鳥海さん
カルスタ賞の選考方法
『私たちのカルスタ』への投稿者は1・2年生で、総論文数は、今年は72編でした。今までで最も「分厚い」号となりました。
これまでは、投票は1回限りでしたが、2014年度からは「できるだけ多くの作品を読んでもらうために」、投票を2回にわけました。つまり、第1回目の投票で上位にきた作品を、さらにもう一度全員に選んでもらう、という方法です。
その結果、第2回目の投票結果は、次のようになりました。
菊地萌花 「頑張らない美学――最近の若者の生態」 38票
鳥海葉瑠加 「量産型大学生の自分らしさ」 30票
佐野海来 「ジブリ・ディズニーのヒロイン比較から見る女性の“没個性化”」28票
吉崎恵美 「『ぐりとぐら』にみられる遊び」 24票
野口桃花 「『どうぶつの森』がもたらす〈癒し〉」 24票
これらの論文の中から、着眼点、自分の意見の有無、議論の論理的な展開、論旨の一貫性、議論の説得性、結論の明快さ、文章力、形式などを踏まえて、総合的に選考しました。
毎年書いていることですが、書かれたものの評価は、往々にして、評価する人によって異なります。それは、多くの賞やコンクールで、審査員の意見が食い違うことに見られます。したがって、今回賞を取った人も取れなかった人も、学生諸君の投票結果ならびに選考結果に、一喜一憂しすぎないでください。まあ、カルスタの論文集の「オマケ」くらいに考えておいてください。
全体の講評
鳥海論文と佐野論文では「没個性」というテーマが共通していました(菊地論文も部分的に)。評者は「そういう時代なのか」とも感じましたし、その一方で「昔から相変わらず言われていることだな、10年たっても同じようなことが言われているだろうな」とも感じました。「没個性」の時代になる/なったのにはそれなりの理由があるでしょう。さまざまな角度から、この問題には切り込めると思います。しかし、問題の真相/深層に切り込むのは難しいでしょうね…。
さらにいえば、「これは西洋的な観点からの話ではないか」という気もしないでもありません。「個性」があることは無条件に良いことでしょうか。個性を強調すれば、「個性を出さなければいけない」という強迫観念も生まれてきますし、「個性」が強調されない社会のほうが気楽に生きていけるかもしれません。そう思いませんか? 個性を強調する現代ですが、実情は40年前と比べてあまり変わっていないというのが、評者の率直な感想です。最初から、かなりきつい感想ですね(笑)。
論文集は2部構成で、「アイデンティティ」と「日常性と非日常性」から成っていましたが、上位の3作品は、投票でも「アイデンティティ」の部門から選ばれています。たぶん、こちらの主題のほうが書きやすいでしょう。また、1・2年生というのは、「アイデンティティ」に興味がひかれる年齢にあたるかもしれません。
細かいことかもしれませんが、個々の論文の「注」の付け方には問題がかなりあります。まだ1・2年生で、とくに1年生は入学して数か月のころに執筆した論文ですから、それほど厳密に「注」の付け方、引用文献の示し方に習熟していないかもしれません。しかしながら、さまざまな授業で論文の書き方の指導を受けてきたはずです。「注」のルールを守れるようになりましょう! 「注」は本文に匹敵するほど重要です!
個々の論文にたいするコメントはすべて、投稿者全員に向けられたものです。「自分と関係ない」と思わないでください。論文集の作成は「カルスタの教育の一環」ですからね。
受賞者全員に、こうした立派な賞状が手渡されました。
金賞の作品について――菊地論文
菊地論文は、投票でも差をつけて第1位です(得票率53%)。やはり、評者が読んでも、5論文の中ではもっとも読み応えがあります。
まず、「頑張る」ということは分かっているようで分からないことだ、ということから始めましょう。自分では頑張っているつもりはないのに、周りからは「頑張っている」といわれることもあるでしょう。その反対に、自分では頑張っているのに、周りからは「頑張っていない」といわれることもあるでしょう。ある人が頑張っている/頑張っていないは、いったい誰が決めるのでしょう――「幸せ」の場合と同じです。
著者の菊地さんは、論文の執筆に頑張ったのでしょうか、それとも、べつに頑張ったわけではないのでしょうか…。
それでは、本題に入ります。
論文は、若者の「頑張らない気質」を取り上げていますが、「大人」との若者の関係についてもかなり考察されています。
論文集に収録する論文は長いものではありませんから、焦点を絞ることが重要です。その点、著者は「近年の若者と呼ばれる人々の気質を取り上げ分析していく」のですが、これをさらに限定し、「若者の〈頑張らない〉気質を取り上げ考察していく」と、議論の舞台を設定しています。
著者は、若者は「大人になる」のではなく「大人にさせられる」のであるという、山崎靖親の論点を紹介しながら、これを逆にとらえて、若者は「若者にさせられる」ともいえる、と述べています。この視点は面白いですね。
それに続いて、「〈若者〉という虚構を作り語る者は、それによって〈大人〉になっている」という主張も登場します。この主張にある「虚構を作り語る者」という主語には曖昧さがありますが、「若者」なのでしょう。しかし、別のところを読むと、主語は「大人」の可能性が出てきます――「結局大人のいう〈若者〉はただの虚構であるということだ」と。主語を明確にするというのは、論文を書くうえで、きわめて重要です。
論文では、上で述べたように、若者と「大人」との関係がかなり論じられています。さらに、「若者が若者らしくいるためには対局となる大人という存在も必要不可欠なのだ」というのが、論文の最後を締めくくる言葉です。ですから、タイトルには、「大人によって作られる」という語を挿入して、「頑張らない美学――大人によって作られる最近の若者の生態」としたほうが、さらに的確なタイトルになるような気がします。タイトルは細心の注意をはらってつけましょう。
先の「全体の講評」で、鳥海論文と佐野論文では「没個性」というテーマが共通している、といいましたが、菊地論文でも「若者に限った話ではないが、日本人は皆と同じであることに安心感を覚える」と述べられています。そして、著者は、「最近の若者が頑張らないこと」に関して、次のような分析をしています。
頑張らないことが格好良いという価値観に加え、そうした日本人のマイノリティーになりたがらない気質が更に拍車をかけ、頑張っている者の姿が滑稽に見えてしまうのだ。だからこそ、日本人特有の謙遜に加え、最近の若者は社交辞令として頑張っていても「頑張っていませんアピール」をするのである。
これが、著者の主張の1つです。
次に、こうした見解が導かれた理由を探ってみましょう。
「家庭教師のトライ」のCMの描写や、元宝塚トップスター・真矢みきのインタビューを踏まえながら、著者は「頑張る所を他人に見せないほうが格好良いという考え方を容認できるか否かで現代の日本社会において大人と若者との線引きができるかもしれない」と述べます。そして、「大人が頑張ることを美学とする一方で、若者の中では頑張らないことが美学となっているのだ」との見解を導き出します。
さらに、この見解は、現代日本社会の豊かさとも結びつけられ、荷宮和子の「その豊かさが〈がんばらなくてもどうにかなる〉→〈がんばったってしょうがない〉→〈がんばらないのがかっこいい〉という雰囲気になって日本の社会に漂っているのだ」というの議論が紹介されます。そして、著者はこの議論に基づきながら、「頑張らなくても良いことをわざわざ頑張るのは格好悪いというわけなのである」との結論的見解を披瀝します。
2つの見解――CMの描写や真矢みきの言葉、および、荷宮の議論――はともに「頑張らない美学」という点で共通していますが、著者の1つの主張を導くのに、著者が行なったように「複数の根拠」をもってくることにより、その説得力が増大します。
著者によれば、頑張らないことを格好良いとする若者は「決まったことはしょうがない」、だから「頑張らない」、という思考に陥ることがあるようです。さらに進んで、著者は「我慢することとあきらめることは違う。これは最近の若者が勘違いしている部分である」と最近の若者に批判的な主張します。その原因はといえば、最近の若者が「自分を持っていない」からです。先に言及した「没個性」ですね。
さらに、若者を批判しながら、「最近の若者が〈頑張らない〉ことを誤って解釈しているように感じられなくもない」という著者は、「そうした若者は世を御する人にとってみれば非常に都合がよい存在なのである」と主張します。この部分、「どうして都合がよいのか」やや分かりにくいのですが、それは大人=「世を御する人」の要求を「受容するだけ」、大人に従順だからなのでしょう。この一言を挿入すれば、さらに理解しやすくなったに違いありません。
以上、要領の悪い紹介文になってしまった嫌いがありますが、内容の紹介をしながら、部分的に、評価すべき点や問題点も指摘しました。
最後に一言だけ述べて、菊地論文へのコメントを終わりとします。
著者は最新の2014年の資料(主としてネット上の情報)も読みこなしていますが、重要視している真矢みきのインタビューは1998年4月、荷宮和子の著作の出版が2003年7月です。ということは、現代の大学生と15年から20年くらい前の大学生には、「頑張らない」「受容するだけ/受動的」という点において、かなりの共通性があるということになります。だとすれば、タイトルの「最近の若者」には、「かなり昔の若者」も含まれることになるでしょう。
この点、著者はどう考えるのでしょうか…。もしも「含まれる」としたら、タイトルにある「最近の若者」の「最近」がボケてしまう気がします。反対に、「含まれない」としたら、議論の根拠が薄弱になるでしょう…。著者はどちらの選択肢を選んでも苦境に立たされます。優れた議論を展開できる著者ですから、評者が納得する答えを期待しています。
銀賞の作品について――佐野論文
佐野論文のタイトルを見たとき、「あまり読みたくないな…」と感じたのですが――評者は正直だから赦してください(笑)――、読んでみて、面白かったです! これは、極めて重要なことであり、最大級の褒め言葉です。自分の文章に興味がないと感じていた人を、自分の文章に引き付けることは、難しいことですし、これができたら、文章を書くうえで1つの大きな成功でしょう。
おそらく、細かな点をあげつらって論文を批判しようと思えば、論文で論じられた作品に詳しい人たちには可能でしょう。しかしながら、アニメを題材に、綺麗な比較文化論を展開しているのは、5つの論文のなかでは、これだけです。この点を高く評価したいと思います。
論点の絞り方、つまり、「本稿では〈個性〉という観点からディズニープリンセス・ジブリヒロインを分析し、日本女性の〈憧れ〉について考察していく」という焦点の絞り方も明確です。
論文の主張は明確で、「おわりに」の部分に端的に表われています。
同調意識が高まるあまりに没個性化が進んだ女性たち、その憧れのヒロインであるディズニープリンセスたちもまた、個性のない女性だったのだ。多数派でいたい、という女性の気持ちの表れが、ディズニープリンセスたちの型通りに進むストーリーや性格とマッチングして、憧れへとなっていったのである。〔…〕「みんなが憧れているから」という理由でプリンセスを憧れの存在にする。これこそがまさに「没個性」の象徴といえるだろう。ジブリヒロインになりたい、という憧れを口にできる女性は日本ではまだまだほんのひと握りの「少数派」なのである。
著者は、「客観的」な論を展開しているのですが、ディズニーとジブリのどちらのヒロインに共鳴するのかといえば、おそらく、タイトルや議論内容から判断して、ジブリのヒロインでしょうね。終盤に見られる、「多数派でありたい女性たちは、〈個性をもつ〉ジブリヒロインではなくディズニープリンセスを憧れの対象とするのである」という見解は、極めて挑戦的です。
論文の議論の進め方は、全体として、きわめて明快です。これも評価したいところです。
問題点も指摘しておきましょう。他の論文にも誤字・脱字はあるのですが、銀賞の論文でもいくつもあります。揚げ足取りではなく、みんなに気をつけてもらいたいので、敢えて、いくつか指摘しておきます。「つまろ」⇒「つまり」、「あい」⇒「あり」、「思われなくない」⇒「思われたくない」。こういうと、この講評にも、おそらく誤字・脱字はあるでしょう。それらを発見することは、将来、自分が論文を書くときの勉強になります(笑)。見つけた場合には、教えてください。訂正します。
タイトルについて述べると、「ジブリ・ディズニー」というのは、「ジブリとディズニー」にしたほうが分かりやすいのでは、ないでしょうか。「ジブリ・ディズニー」という熟語があるのなら、これでいいのですが…。
銅賞の作品について――鳥海論文
鳥海論文は現代日本の大学生の服装とアイデンティティの関係を論じたものです。評者は服装やファッションに疎いこともあり、やや厳しいコメントになります。ただし、銅賞に選んだのですから、論文を評価していることは間違いありません。
1989年の学習指導要領改定に伴い、文部科学省は「新学力観」を導入しました。その結果、内申書では、ペーパーテストの成績が評価全体に占める割合はわずか25%で、残りの約70%は「関心・意欲・態度」を中心とした「観点別評価」によるものとなりました。著者によれば、「このような評価方針によって、子どもは必然的に〈人にどう見られるか〉を意識するように」なり、「子どもたちは常に自分の見た目について気を張っていなければならなくなった」のです。そして、「競争がなくなった学校社会において、子どもは皆と同じであることに安定を感じるように」なりました。さらに、著者は「義務教育時から、他者からの印象が大事であるという考えを植え付けられた現代の若者が優先するのは、〈自分がどうありたいか〉ではなく〈人からどうみられるか〉ということである。彼らがアイデンティティを委ねるのは、常に自分以外のだれかなのだ」と主張します。
著者は1989年の学習指導要領の改訂以降を問題にしているようですが、「周りの人の目」を気にするのは、それよりはるか以前からの日本人の傾向でしょう。ニュアンスに違いはありますが、「出る杭は打たれる」という古くからの諺もあります。評者が小さかった頃、つまり50年以上前でも、著者のいうような傾向はあったように思います。だとすれば、著者の議論は大きな見直しを迫られるのではないでしょうか。すなわち、著者の指摘は、1989年の学習指導要領の改訂などより、もっと根深い問題なのです。
第4章では、「現代の若者が優先するのは、〈自分がどうありたいか〉ではなく〈人からどうみられるか〉ということである」「周囲から突出しないように努め、視覚で他者と繋がろうとした若者の心理が、服装の同一化を招いた」とあります。それと対応して、「はじめに」で、「同じような服装をした若者が大学内や街中にあふれている」「量産型の傾向は若者間に浸透している」「彼らの服装の一例として、男子はデニムシャツにチノパン、女子はシフォンブラウスにベージュのフレアスカートといったコーディネートが挙げられる」などとも書かれています。しかし、本当にそうでしょうか? 大正大学だけを見回しても、評者には、学生は自分なりに「人と違った服装をしている」「少ない小遣いで少しでも個性を出そうとしている」ようにも見えます――これが著者の「地味ではないけれど、ほどよくお洒落な自分をアピール」するということでしょうか。つまり、著者の論じている内容が、現実と必ずしも一致しないのではないでしょうか。これが評者の率直な感想です。このような反論に対して、著者はどのように応えてくれるでしょう。
最後になりますが、「現代の若者が優先するのは、〈自分がどうありたいか〉ではなく〈人からどうみられるか〉ということである」などと、アイデンティティと他人の目の密接な関係について書かれています。これが真実ならば、残念ですね。「セルフ=アイデンティティ」は、他者と自分との相互作用によって得られるものです。そのバランスが大きく崩れることは良いことではないからです。
佳作について
(1)吉崎論文: 著者の結論は概ねその通りでしょう。すなわち、(1)「日常と非日常の境目は、常に動く」、(2)「日常と非日常は視点の問題である」、(3)「自分にとっては日常でも、他者からすると非日常的なことである可能性がある」、(4)「日常と非日常のバランスが大切だと考える」というのは、その通りでしょう。
冒頭で著者の「日常」と「非日常」の具体例が挙げられます。また、フロベーニウスが登場する祭りの部分は、1年のうちで短い期間(複数回おこなわれる場合でも同様)に行われるものです。この2つのコンテクストの「日常と非日常」の区分には「時間の流れ」が深く関与しています。他方、「ぐりとぐら」にとっては「日常」で、「大人」にとっては「非日常」という見解には、「視点の相違」が深く関与しています。「時間の流れ」がもたらす「日常/非日常」と、「視点の相違」がもたらす「日常/非日常」とを明確に意識して執筆すると、さらに明確な議論を展開できたかもしれません。
(2)野口論文: 第1章と第2章で、内閣府、NTT-BJ、早稲田大学の野中忍氏の調査を引用していることは評価できます――ただし、注がきちんとついていないのが残念です。こうした信頼できる資料をきちんと読むことは、論文を書くときには、極めて重要です。しかしながら、タイトルが「『どうぶつの森』がもたらす〈癒し〉」とある割には、中心となるべき第3章の論述が少ない/弱いことは否めないでしょう。論文全体の構成として、バランスが良くないということです。第3章をもっと分量的にも質的にも充実させることが望まれます。あと1頁くらい、『どうぶつの森』について書くべきではなかったでしょうか。言いかえれば、「おわりに」で論じていることにさらに説得力をもたせるために、第3章を充実させるということです。
評者は『どうぶつの森』というのは「絵本」だと推測していました。しかし、読んでいて、「ゲーム」であることが判明しました。カルスタの読者には、分かるかもしれませんが、「ゲーム」という言葉をタイトルに入れてもらえると、一般読者には親切かな、と思います。
後列左から、佳作の吉崎さん、野口さん、PRポスター賞の田中さん
おわりに
2014年度のカルスタ賞の講評は、以上で終わりとします。また来年も、素晴らしい論文集『私たちのカルスタ』が出来上がることを楽しみにしています。
最後に、論文集に投稿してくれたカルスタの学生の皆さん、企画委員や運営委員の人たちにも、御礼を述べて、擱筆します。ありがとう!
また、教務部・事業推進室の皆さんにも、大変お世話になりました。ありがとうございました。
星川啓慈(人文学科カルチュラルスタディーズ教授)