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国際文化コース

カルスタ漫画・アニメ・ゲーム研究会「トワイライト」の活動報告⑩

カルチュラルスタディーズコースの有志による研究会「トワイライト」が意欲的に活動に取り組んでいます。活動報告も10号になりました。
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 こんにちは、MAです。トワイライトの報告をさせてもらいます。今回、視聴したのは『<harmony/>』(以下『ハーモニー』)です。『ハーモニー』は2015年に公開された、SF作家の伊藤計劃の小説が原作のアニメーション映画です。正直に白状しますと、この作品の物語自体に何か述べようとするのは、私にはとても難しいものでした。したがって、物語自体の考察的なものよりも、映画の演出寄りの内容になることをご了承ください。

 

 『ハーモニー』の物語を説明するのが難しく、あくまでも私の自己解釈ですが、「『人類から自分が自分であるという意識をなくして、社会の調和<ハーモニー>を図る』という計画を実行させるために、ミァハという女性が世界を大混乱に陥れて、トアンがミァハを探す」という話です。主人公はトアンという女性で、ミァハとは高校時代の友人でした。

 『ハーモニー』の視聴後にトワイライトメンバーの一人から「なぜ、女性同士の友情を百合(女性同士の恋愛)のように描くのか」といった意見が出ました。『ハーモニー』の終盤で、トアンとミァハの二人が対峙するシーンが描かれます。ミァハがトアンにハーモニーの世界に一緒に行こうと提案して、二人は抱き合います。しかし、トアンは

 

  「ミァハがハーモニーの世界を望むなら、私もそれを受け入れる。でもねミァハ、ミァハだけは
  そこに行かせない。私が好きだったミァハでいて。愛してる、ミァハ」
                             (『ハーモニー』1時間5154秒)

 

と言って、銃声が響きます。このシーンで明確にトアンからミァハへの愛の告白がなされているといえるでしょう。映画ではトアンから同性であるミァハへの恋情を受け取らざるをえないのです。

 「なぜ、女性同士の友情を百合のように描くのか」という問いには付随して「百合を神聖なものとして見る風潮があるのではないか」「百合という性的な対象が社会で消費されているのではないか」といった問いも出ました。「百合という性的な対象が社会で消費されているのではないか」という問いに対しては、その通りではないかと私も考えました。BL(男性同士の恋愛)が嗜好として消費されているのだから、百合もその傾向があるだろうと素直に考えられます。また、「なぜ、女性同士の友情を百合のように描くのか」という問いも、需要があるから描かれるのではないだろうかと思います。

 「百合を神聖なものとして見る風潮があるのではないか」という問いに関しては意見がまとまりませんでした。私個人としては百合が神聖なものであるような感覚は理解できます。でも、なぜそのように感じるのかといったら説明に困ります。「女の子は淑女であるのがいい」のような「女の子は清潔だ」のようなイデオロギーが無意識に働いているのでしょうか。ぜひ、この問いをもったメンバーには答えを見つけて欲しいです。

 

 物語終盤の百合表現について、原作ではどのように書かれているのか気になり、映画の終盤部分の原作で該当する箇所を読みましたが、原作では上記したようなセリフをトアンはいいませんでした。原作でもトアンはミァハを銃で撃ちます。映画では大好きなミァハがミァハでなくなることが嫌で、撃ったように受け取れますが、原作では父親と友人を殺された復讐としてミァハを撃ちました。この映画化する際に「復讐から女性同士の恋愛」へ話が変更されたのはなぜなのでしょうか。トアンのミァハへの心情が変更されるというのは、かなり大きい変化ではないでしょうか。私はつい、映画を売るために百合要素を取り入れたのではないかと考えてしまいます。 

 

 以上、いつもの何倍もとりとめのない報告になってしまいましたが、これで報告を終わります。

 
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本人は「とりとめのない」と謙遜していますが、よく考え、仲間の意見も取り入れた報告です。


自分たちの自主的な時間を、仲間と共に共有し、そして、その活動を報告する、そのような経験から、学生たちが「力」を自分で培っています。誇らしい学生たちです。
                                       ♪伊藤淑子


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