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2016年度の「カルスタ賞」発表!

2016年度の「カルスタ賞」発表!

   カルチュラルスタディーズコース1年生と2年生の2016年度の活動の集大成として、3月に『私たちのカルスタ』を刊行いたしました。企画委員たちを中心に、学生たちが自主的に研究を展開した成果です。本文だけで150頁という、立派な論文集が完成しました。先輩から後輩へと受け継がれ、これで『私たちのカルスタ』も第7号になりました。

 それでは、論文集の編集活動をサポートしてくださった星川先生から、『私たちのカルスタ』第7号の論文を講評していただきましょう。

学生諸君によって選ばれた8つの論文

    それでは、星川の方から昨年度の『私たちのカルスタ』に投稿された論文について、講評をおこないます。以下、文体は「常体」(だ・である調)とします。

 なお、全体として、「辛口のコメント」になります。

 カルスタの1年生・2年生による投票で選ばれたのは、次の8名(得票順)である。

 

1.伴場 優衣:「ウォルト・ディズニーの救世主〈プルート〉」(12票)

2.登松 優一郎:「『ベイマックス』におけるヒロの成長――仏教心理学とトランスパーソナル心理学の観点から」(7票)

3.曽我 大稀:「ロボットに感情は不要である」(6票)

4.丸山 悟志:「歴史的変化から見るドラゴンの役割の変革」(4票)

5.中根 芽美:「おとぎ話を否定するディズニー映画 ――『魔法にかけられて』の大人たちへのメッセージ」(4票)

6.板橋 加奈:「サンリオの擬人観」(4票)

7.中屋 沙梨:「ヘタリアに出てくる〈国〉とは何か」(4票)

8.岡田 匠平:「漫画『東京喰種トーキョーグール』から考える他者理解」(4票)

 

 まず、得票数の順番にコメントして、その後、選考結果を示す。

    なお、カルスタの学生諸君には、本講評を自分に向けられたものとしてすべて読んでもらいたい。その理由は、(1)『私たちのカルスタ』の発行は「カリキュラムの一環」という位置づけがなされているからであり、(2)本講評を読むことは、まちがいなく卒業論文の執筆にも参考になるからである。

 

全体的に気がついたこと

 

 最初に、全体的な注意事項を述べたい。それは、(1)論文の「構成」(construction)をしっかり考えた方がいいということと、(2)「助詞」の使い方に気をつかうべきであるということである。論文の「構成」には、論の展開の仕方、論述量のバランス、問題提起とそれに対する回答との対応などが含まれる。また、「助詞」は正確に使わないと、意味が理解しにくくなることが多くなる。

    次に、投票で上位にランクされた個々の論文について述べたい。


表彰式の風景


各論文についての講評

 

1.伴場論文は、「はじめに」の問題提起と「おわりに」の結論とが対応していて、論文の条件は満たしている。しかし、論述の展開の仕方に問題がある。

論文は、各部分が有機的に繋がっていなければならない。つまり、論文には「緻密な構成」が要求される。この観点からいうと、「Ⅱ アメリカのペット観」が、論文全体でどのように生かされるのか、後の議論にいかなる影響を与えるのかが、評者には分かりにくい。とくに、最初の段落は不要ではないか。

 もしも第Ⅱ節を削除/短縮するならば、その紙幅を第Ⅲ節の「ウォルトの憤慨」の記述にあてるとよい。なぜなら、その記述がプルートの「ミッキーを救う役目」をさらに引き立てるからである。

 

2.登松論文は、「仏教に通ずる価値観」をもとに、仏教心理学にトランスパーソナル心理学の知見も加味しながら、ディズニー作品の分析をおこなっている。このことには意欲を感じる。また、分量的にもかなりあり、これらについては評価してもよい。

しかしながら、論文の全的評価となると難しい。まず、誰に読んでもらいたいのだろうか? 仏教心理学に詳しく、かつ『ベイマックス』をよく知っている読者でないと、理解できないのではないか。しかし、得票数は第2位であるから、カルスタの学生諸君は素晴らしい――双方について詳しいのであろう。それを踏まえたうえで、辛口のコメントをする。

 ブレイジャーの『自己牢獄を超えて』の著作を手引きとしているが、仏教用語の丁寧な説明(註でもいいのだが)が必要である。なるほど、「五蘊」の説明もないではないが、全体として、仏教用語の適切な解説がないと、仏教に精通していない読者には読みづらい

 次に、『ベイマックス』をよく知っていないと、作品における「シーンの切り取り」を仏教心理学とトランスパーソナル心理学で解釈するという手法を理解できない。

一言でいうと、「論文としての全体的構成」を周到に考えることを勧める。論文としての構成を「建物をたてる」「プラモデルを作る」ように考えるべきであろう。

 「はじめに」との分量的なバランスもあるのだろうが、「おわりに」には問題がある。まず、論文のサイズから考えて、「今後の課題」は不要である――基本的に、論文の結論は、それに先行する議論から「演繹」されるものでなくてはならない。さらにいうと、その前の段落の「しかし」以下の最後の一文もないほうがすっきりする。その分の紙幅をそれに先行する部分の論述を充実させることにあてると、論文としての「重み」がでる。

 

 3.曽我論文は、その主張――「ロボットに感情を持たせることは不必要である」――が明確である。この点は評価できる。論の進め方もそれなりに納得できるし、「人間とロボットでは感情を手にする過程が異なる」という指摘もなかなか鋭い。

しかし、「ロボットは自我や自己を原理的にもつことができないこと」をそれなりに論じる必要があるだろう。少なくとも、そのことを論じた専門家の文章の引用が欲しい。「ロボットが自我を持つことができるか否か」は難しい問題だが、非常に面白い問題だ。一度考えてみてほしい。

 なお、アシモフの「ロボット三原則」は現実世界では無意味である。人を何人も殺した凶悪犯がいるとして、その凶悪犯がAさんの家族が住んでいる家にやってきたとする。そのとき、一緒に住んでいる「自我や感情、高い知性を備えた」ロボットが、Aさんの家族を護るために、その凶悪犯に「危害を加える」ことは許されないのだろうか――そうしないと、Aさんの家族が惨殺される。「ロボット三原則」は「危害の概念規定」や「原則の成立条件」をめぐって面倒な問題を抱え込んでいるのではないか。

 細かいことだが、「助詞」の使い方に神経をつかった方がよい。132頁の9行目、「現実問題として……指摘された」という1文で、「が」が4回も使われており、意味がわかりにくい。

 

 4.丸山論文は、古代文明に「竜・ドラゴン」の起源を辿り、東洋と西洋でそれらがいかなるものへと変化していったかを跡付け、現代のマンガ、アニメ、ゲーム、ファンタジーなどに「竜・ドラゴン」がどうして頻繁に登場するかを論じたものである。なかなか理路整然と書かれていて、分かりやすい。この点は評価できる。

評者が結論を要約すると、「ドラゴンに関する神話が変化することにより、ドラゴンに多種多様な役割が生まれ、これが現代のファンタジー〔さらには、マンガ、アニメ、ゲーム〕でドラゴンが頻繁に登場する理由である」ということになろう。しかしながら、論文としては食い足りない、物足りない、おとなし過ぎる、優等生過ぎる。もう少し、著者が主題と格闘する姿を見たかった。

どうして評者はそのように感じるのだろうか。その理由は、論文のサイズに比して、論じる事柄が大きすぎるからである。だから、どうしても浅い論述にしかならないのである。

 

 5.中根論文には、冒頭から「ある意味で」という言葉が出てくる。評者もこの便利な言葉を使わないではないが、極力、避けるようにしている。その理由は、「曖昧さ」「不透明さ」が論文に持ち込まれるからである。「どんな意味/点で」を明言するとよい。つまり、すなおに、著者がいうように、「主要登場人物が〈おとぎ話〉を否定している点において」と書けばよい。

 しかし、最大の問題は、「はじめに」と「おわりに」で捻じれ(ねじれ)が生じている点である。最後にこうある――「考察の結果、本作も映画自体はおとぎ話を否定するものではなないことがわかった」。これでは困る。読者はこの1文に遭遇すると、ガックリするだろう。評者は肩透かしをくらったような気になった。なるほど、その後に、これを補足する文章が続くが、それでも論文の構成上、改稿したほうがいい。「はじめに」と「おわりに」を書き直すということも考えられるが、著者の「『魔法にかけられて』は現代の大人たちに贈るファンタジー、おとぎ話である」という観点から全体をまとめ直すのはどうか。

 

 6.板橋論文は比較的読みやすかった。人に読んでもらうのだから、読みやすさは重要である。しかし、タイトルに工夫がほしい。「サンリオの擬人観」では、何を論じたいのか伝わってこない。著者の言葉を生かすなら、たとえば「サンリオの〈擬人化〉戦略――マンネリ化したサンリオの革命」とでもしたらどうだろうか?

 論文には、証拠・論拠などをあげる必要がある。たとえば、「擬人化の際に動物をモチーフとすることで、サンリオの色を残しつつ〈これがサンリオか〉というインパクトを与えることができる」とある。ここで、このことを裏付ける誰かの「声」がいくつかあれば、説得力が増す。反対に、「もうサンリオはいいや…」と思う人もいるかもしれない。相反する2つの方向に目配りしながら、「インパクトを与えた」方向にもっていくとよいだろう。もちろん、そこまでは要求しないけれども、今後のこととして、心にとどめておいてほしい。

 「はじめに」と「おわりに」の対応もよい。結論は、新たな要素を持ち込まず、先行する議論から「演繹されている」ことも評価できる。

 

 7.中屋論文のタイトルおよび「はじめに」の問題提起は「ヘタリアに出てくる〈国〉とは何か」であり、一応、これに対する結論(平凡だが)もそれなりに筋が通っている。

しかしながら、第Ⅲ節のフランスのシンボル「マリアンヌ」に比べて、メインであるはずの「ヘタリア」についての論述が少なすぎる、つまり、論文としてのバランスがよくない。論文には「構成」(この場合には論述量のバランス)というものが重要になってくる。

 第Ⅲ節の最後の文章だが、主語が2つ(「マリアンヌ」と「多くの人」)あり、文章に捻じれが生じている。もっとも手っ取り早い直し方としては、「が」を「であったが、」とすればよい。1つの文章だが、文章が2つに分かれて、それぞれに主語があることになる。

 

 8.岡田論文は、『東京喰種トーキョーグール』についての解説があり、これは親切である。しかしながら、「他者理解」の理論についてはかなり書かれているが、『東京喰種トーキョーグール』という作品に即した議論がない。これでは、「漫画『東京喰種トーキョーグール』をもとに他者理解について考察してく」という「はじめに」で書いたことを遂行したとはいえない

また、根本的に、人間と「喰種」は理解し合えるだろうか? 論文における他者理解は、社会心理学者のニューカムの理論をはじめ、「人間における他者理解」についてのものである。主人公は「半喰種」とはいえ、人間と「喰種」では「生活の形式」(ウィトゲンシュタイン)――人間は(例外を除いて)人間を食べないが、喰種は人間を食べる――が異なる。そうだとすると、両者は、人間を食べることをめぐって、「共感的に」理解しあえるだろうか? 多くの人間は自分が食べられることを嫌がり、自分を食べるような喰種に警戒心を懐くのではないか?

 

上記の投票結果を踏まえながら、評者が総合的な観点から選考した結果は、次のとおりである。

 

金賞:対象者なし。

銀賞:伴場 優衣、板橋 加奈。

銅賞:登松 優一郎、曽我 大稀。

佳作:丸山 悟志、中根 芽美、中屋 沙梨、岡田 匠平。

PRポスター大賞:荻堂惟智乃さん 

   

 

おわりに

慎重に選考したけれども、論文の評価は評価者によって変わることもあるので、選考結果に一喜一憂しないでほしい。講評を読み、今後の論文(とくに卒業論文)執筆に参考にしてもらうことが、もっとも重要なことである。

 それでは、また来年も、傑作/秀作/快作/力作にお目にかかれることを期待しながら、講評を終わりとしたい。

 

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付録――「各部分の有機的繋がり」

 

講評の中で、「各部分の有機的繋がり」が重要である、と述べた――「論文は、各部分が有機的に繋がっていなければならない」。「各部分の有機的繋がり」の手本として、論文ではないが、田中久重(1851年完成)の「万年自鳴鐘(まんねんじめいしょう)」(=通称「万年時計」)を紹介しておきたい(これは「時間論」の授業で写真だけ配布した)。日本が世界に誇るこの和時計の各部品の「有機的繋がり」をぜひ見てほしい! 田中の「万年自鳴鐘」に対する執念も! 時計全体の「構成力」も! 

 

◎田中久重の万年時計の機構解明と復元プロジェクト

https://www.youtube.com/watch?v=N35jJKJKRl8

◎「万年時計の機構解明」プロジェクトに参加した久保田裕二氏の短い論文

https://www.toshiba.co.jp/tech/review/2005/07/60_07pdf/a0501.pdf

 

 


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