学部・大学院FACULTY TAISHO
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宗学コース
特別企画「学びの探索 教員版」第10回 粕谷隆宣先生(真言宗豊山派)
公式Facebookページ開設を記念して、学科教員の研究の紹介や教員になった経緯などを紹介する企画です。
大学HPの教員紹介よりも一歩踏み込んだ内容となっております。
高校までには居なかった、専門分野において突出した知識や経験を持つ仏教学科の先生たちを余すことなく紹介します。
第10回は宗学コースの粕谷隆宣先生です。
インドの仏縁に導かれて
得度の思い出
私はインドで得度しました。中学1年の冬休みのことです。師僧(父親)を戒師として、恐れ多くも、お釈迦さまがさとりを開かれた、ブッダガヤ金剛宝座の御前でうけました。
当時、この田舎から海外へ行くなど稀でした。しかも、日程の都合で、休みに入る2・3日前には出発しなくてはなりません。担任の先生に事情を話すと、朝の会で「粕谷は、お坊さんになるための儀式をインドでするため、明日から学校を休む。これは得度といって…」と、クラスの皆の前で先生の公開授業が始まってしまいました。大学の哲学科を出たその先生は、やたらに仏教に詳しい人でした。中1というナイーブな時期。皆の視線が一気に集まった私は、顔を真っ赤にして下を向いたまま「先生、はやくやめてくれ」と心の中で叫んでいました。
それでも得度は無事におこなわれ、仏跡もたずねることができました。今思えばとても幸せなことで、無二のありがたさを感じています。同時に、インドという国には衝撃をうけました。旅行中はカルチャーショックの連続で、自分の価値観が根もとからひっくり返されました。
牛と貨物列車
それは、得度から20年以上を経て再訪したときも、変わっていません。踏切の真ん中に鎮座している1頭の牛によって、そこを通行する人・バイク・車やトラックが、いっせいに渡ろうと大渋滞になっていました。10分経っても20分経っても、牛は一向に動きません。そうこうしているうちに、踏切へ長大な貨物列車が近づいてきています。どうなってしまうのか…固唾をのんで見ていました。驚くべきことに列車は警笛をならすことなく、ピタリと牛の前で止まり、走ってきた線路を引き返していってしまったのです。
列車はどこへいくのか。宅急便に時間指定があるような日本では、とても考えられない光景でした。
大正大学の学び
私は大正大学の仏教学科ではなく、当時新設された哲学科・国際文化コースの出身です。自分にまだ僧侶以外の道をとっておく、浮気心があったからだと思います。最高の場で得度したにも関わらず、高校時代はバンドにかぶれ、ビートルズをこよなく愛し、ミュージシャンに憧れていました。卒論はメディアに関することでしたので、およそ仏教とはかけ離れていました。大学で僧階に関わる単位は取得していましたが、胸を張って仏教・特に真言宗学を勉強してきたとは言えませんでした。このまま田舎に帰って僧侶が務まるのだろうか、という危機感と、まだ東京にいられるという不純な動機とが合わさって、大正大学大学院への進学を目指します。当時の試験は英文和訳に比重が置かれていましたので、必死になって英単語を覚えました。おかげで、なんとか合格することができました。
研究テーマ ―明恵上人との出会い―
大学院修士のとき、高野山で行われた学会に参加しました。せっかくだからと、学会が終わったその足で、学友と紀州湯浅を旅したのです。10月の頭でしたが、とても暑かったことを覚えています。湯浅は海のきれいなところで、時期を無視して、港から見える小島まで「皆で泳いでみよう」ということになりました。
そこで偶然出会った一体の石像。それが私の研究テーマとなる明恵上人でした。そのとき、どんな僧侶か詳しくわからなかったのですが、明恵という名前は胸に残りました。そして、自分が研究していた「菩提心」の思想に、明恵が深く関わっていると知りハッとします。明恵をもっと知りたい。そこから、本格的な研究への道が開かれることとなりました。
明恵は生涯一途に釈尊を思慕し、インド行きを夢にしていた人です。旅程記まで作ってインドに行きたいと、四六時中考えていた人です。それを思うとき、自分がいかに恵まれていたかと痛感します。明恵に少しでも近づくためにも、今後、さらなる研究を進めていこうと思っています。