学部・大学院

「学び」と「実践」を通じた人材育成

公共政策学科

SNSはSOCIALか 無意識に行う発話行為 (北郷先生より)

 これまで大学でメディアや情報関連の講義を複数担当してきた中で、SNS(Social Networking Service)についての説明や定義を度々述べてきました。特にfacebook、twitter、line、Instagramに例を見ながら様々な課題や議論を伝えてきました。しかし最近、少々違和感を覚えることが多くなっています。そもそも本来Socialな中での発話ツールという位置づけであれば、その言葉の持つ意味が「社会性」「社会的」「社会化」と言う「個人が社会の成員としての価値観、知識、行動様式等を習得していく過程のこと」と捉えるならば、稚拙な表現ですが「ほどほどの節度」が担保され、その中で交わされる会話は緩やかな連帯や共感を生むのが当然なはずです[i]。それでは昨今話題になっているtwitter発言等の炎上現象はなぜ起きるのでしょうか。勝手なリツイートや拡散を望む時点でどこまで社会的なネットワークと言えるのでしょうか。ほぼ実名性が担保されると言われるfacebookの中の発言でさえ首を傾げるものもあります。

 SNSの公開範囲の設定の問題として、おともだち(申請)を基にしたネットワーク範囲でコミュニティが成立していると仮定して、このような炎上しやすい発言内容はコミュニティと言うヴァーチャル(疑似)的にも閉じられた世界への安心感や気軽さからくる一種の「甘え」「油断」が生じると簡単に納得してよいものでしょうか。

 そもそも良い意味で機能的に閉じられた空間と意識しながらも、コミュニティ内にいる意識的に呼びかける対象者以外の意識が及ばない人々(申請行為時には意識しているはずであるが)を見落とすという「慣れ」に起因しているのでしょうか。あたかもwebにおける5ch掲示板への書き込みのような顔の見えない不特定多数の存在に対してなされるような…

 つまりSNSのコミュニティ(ヴァーチャル)は現実(リアル)のコミュニティと違い、特定な人々の集団と思い込みがちでありますが、実際は自身の意識も含めて極めて不安定な集まり(どんどん友達にして集いあってしまった多数の集合 常に可視化できていない)と言うことを忘れ、ある一定の少数のみに意識が及び、あたかも同じ考え方(イデオロギー)の集団と言う錯覚まで伴い「発言」してしまう意識が、本来の節度や社会的配慮を欠いてしまう原因かなと考えます。

 小難しく書いてきましたが、結局SNSと言う安心感は幻想であり、ネットの世界はどこまでも一定のフィルターのかかったコミュニティ(ヴァーチャル)であると自覚する必要があるでしょう。むしろ炎上を意識して発言している人たちの方が、この点を逆手に取るリテラシーを持っているのかもしれません。

 学生の皆さんとは、こんなことを議論しながら講義の中で様々な矛盾について考えていきましょう。



参考 よくわかる社会学 (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ) ミネルヴァ書房; 2 (2009/2/1) pp118

実際にはTwitterのエンジニアリング担当副社長は「私たちはソーシャルネットワークではありません。私たちは情報ネットワークです」とも述べています。
https://www.cnet.com/news/twitters-not-a-social-network/


 

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