学部・大学院FACULTY TAISHO
社会福祉学科
100年福祉-108 「大正」を想う(1) 歴史の中で
今年100周年を迎えた大正大学社会福祉学科の組織的源流は、1917年(大正6年)に設立された宗教大学社会事業研究室にある。宗教大学はその後、「大学令」により大正大学と成り、1926年(大正15年)に再出発をしている。大正大学の100周年も近づいている。
歴史をもう少し遡ると、日本で第1号の近代的な大学は、1877年設立の東京大学である。同時期には西南戦争が始まった。社会事業研究室ができる約40年前のことであった。この時には、まだ大日本帝国憲法も国会もなかった。そのこともあって、自由民権運動が1880年代になって激化していった。1884年11月1日には、埼玉の秩父で困民党による武装蜂起が起きている。田中正造(1841-1913)は、栃木における自由民権運動の活動者の1人であった。
1886年になると、伊藤博文内閣は「帝国大学令」を発した。その第1条では「帝国大学ハ国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攷究スルヲ以テ目的トス」と規定し、「国家のため」に設置されたのは明らかである。この時、東京大学は帝国大学(後に「東京帝国大学」)となった。
明治政府は、富国強兵や殖産興業といった近代化スローガンを掲げて帝国化を進める拠点、その人材を養成する組織として大学を位置付けた。栃木県の足尾銅山を経営した古河鉱業は、当時の大学生にとって花形の就職先になり、東京大学などの工学系の出身者を採用し、最新の技術を導入していった。1894の日清戦争(下関条約による台湾植民地化など中国侵略)、1904年の日露戦争、1910年の韓国併合による植民地化、1914年の第一次世界大戦参戦などが実際に行われたように、東アジアの覇権、資源獲得、市場開拓をめぐり、その「実力」を備える学術の場を創出していった。
こうして、明治時代には、1897年京都帝国大学、1907年東北帝国大学、1911年九州帝国大学がそれぞれ設置された。大正時代には、1918年北海道帝国大学、1924年京城帝国大学が、昭和時代には1928年台北帝国大学、1931年大阪帝国大学、1939年名古屋帝国大学が、順次国家的に設置された。当時、朝鮮の京城と台湾の台北には植民地支配の拠点として総督府が置かれていた。
一方で、「大学令」は、原敬(1856-1921)内閣のもとで1918年(大正7年)に公布され、1919年(大正8年)に施行された。第1条では「大学ハ国家ニ須要ナル学術ノ理論及応用ヲ教授シ並其ノ蘊奥ヲ攻究スルヲ以テ目的トシ兼テ人格ノ陶冶及国家思想ノ涵養ニ留意スヘキモノトス」となっており、帝国大学令を引き継ぎ、国家中心の考え方、国家への貢献が謳われていた。国家よりも個人に重きを置く戦後の根本的基調とは、大きく異なっていた(その意味では、現在の政治には、明治政府的な国家主義に向かう逆流が起きているように感じられる)。ここで、「大学令」を介して、これまで認められていなかった私立大学や公立大学が専門学校等から昇格し、大学として生まれ変わった。大正大学も原敬内閣による高等教育充実化政策の中で設立されたということになる。
私は、様々な物事の現在や未来を考えるために、過去をありのまま振り返ることが大事だと常々痛感している。歴史の中には物事の始まり、沸点、飽和局面、転換点があり、その本質や変質を掴む一端が必ず見出せ、それらは現在や未来の「生活」や「社会福祉」にも関係していることも多い。例えば、1918年(大正7年)の米騒動のように。
社会福祉学科が100周年を迎え、2019年5月に新元号となることが決まった今、歴史のなかの「大正」を想わざるをえない。大正時代は、遙か彼方の時代のような気もするが、歴史は激動の時代として刻んでいる。この頃に起こった社会変革の動き、事件、災害は、史跡や史実となり、現在に連なっている。
今後、このシリーズでは、少しずつ、「大正」にまつわる歴史や訪れた史跡などを紹介していきたい。
(松本一郎)