学部・大学院FACULTY TAISHO
CATEGORY
哲学・宗教文化コース
今年の卒業論文から
今日から授業再開です。
大正大学では毎年12月に卒業論文(卒論)が提出されます。
4年生が、大学での学びの総まとめとして書くものです。
この哲学・宗教文化コースは昨年オープンしたため、まだ1年生しかいないのですが、他の学科に哲学や宗教文化について卒論を書いた4年生の皆さんがいます。
その中から、本コースの教員が指導した卒論の一部をご紹介します。
(ブログ公開のため、書いた学生本人のプライバシーや著作権を侵害しないよう、氏名は伏せ、内容はそれぞれ指導した教員から説明します)
哲学・宗教文化という分野の卒論には、いくつかタイプがあります。
まず、過去や現代の「哲学の巨匠」の思想とがっぷり四つに組む というもの。
①「自由」とは何か―ミシェル・フーコーの思想から考える―
(指導:司馬先生) 現代思想における構造主義の意義を実存主義との対比の中で明らかにするとともに、フーコーの「権力」論を足場に、「生の権力」に捕らわれた現代における「自由」の在り処を探る。
フーコーは1926年生、1984年没のフランスの哲学者です。
1年生や高校生は、「権力って何?」とまず思うかもしれません。
そうですね、皆さんの実感がわきそうなところでは、公立中学の内申書は、権力の行使になりやすい例です。
昔風の、王様が「あれやれ、これやれ」と威張るタイプとはちょっと違い、そんなに露骨ではないのに、生徒に自分の言動をしょっちゅう気にさせるような、見えにくい圧力のこと。
フーコーは、現代人はこういったタイプの権力に縛られていることを問題にしたのです。
② 仏教における主観・客観二元論からの脱却
(指導:司馬先生)ホワイトヘッドの有機体の哲学や廣松渉の「事的世界観」を踏まえつつ、実体概念から関係概念へと向かう現代思想の動向と仏教思想の伝統が共振し合う接点を求める。
ホワイトヘッドは1861年生、1947年没のイギリスの哲学者。
廣松渉は1933年生、1994年没の日本の哲学者。
仏教の「無我」や「空」の思想は、現代の哲学や科学を先取りしていたという議論が、1980年代前後から盛り上がりました。
この卒論もこれを踏まえてのものですが、私(教務主任)が大学に入学したときは、まさにその話がブームになっていました。
その時読んだ本に、廣松渉・吉田宏晢『仏教と事的世界観』(朝日出版社)という対談があります。
当代きっての哲学者が、現代哲学・現代物理学と仏教哲学がいかに近いか、私たちは仏教哲学からどんなヒントをもらえるかを縦横無尽に語っており、「仏教ってこんなにカッコよかったんだ!」とびっくりしました。
(そして、対談相手の吉田先生は大正大学の先生[現在は名誉教授]です。大正大学に就職して、実際にお会いした時は感激しました。)
しかし、過去にはこの発想が、戦争に利用されたこともあったのです。
そこまで突っ込んで学べるのは、西洋哲学も仏教哲学も盛んな大正大学ならではです。
次は、現代社会の問題を考えるのに、哲学を活かすというタイプの卒論。
①心とは何か―人間と動物の違いを踏まえて―
(指導:司馬先生)言語という象徴体系を持った人間の意識の特徴を、ソシュール、ラカン、メルロ=ポンティ等の思想に基づいて明らかにし、現代の脳科学における「心」へのアプローチに対して、方法論的な反省の必要性を説く。
このところ、「現代人はどんどん動物化しているよ」というドキッとさせられる評論がよく出ています(『動物化するポストモダン』『ケータイを持ったサル』)。
でも、そもそも人間と動物の違いは何なの? 心があること? 言葉を使うこと? これについて考えることは確かに重要ですね。
この卒論は、現代哲学系の思想と、脳科学の成果を比較してこの問題にせまるものです。
②生命・人体の商品化に関する一考察
(指導:司馬先生)現代の生命倫理の諸問題に対して、「生命・人体の商品化」という観点から光を当てる。
臓器や卵子・精子などを商品とすることは良いのかどうかという倫理の問題を考えた卒論です。
高校でも学ぶ機会があるかもしれませんが、卒論でもこのところ人気のテーマの1つです。
「それはもう、人それぞれで、売りたい人は売る、でいいのでは」
で終わっちゃいけないんじゃないかな?というのが哲学の始まりです。
③中国哲学を現代に活かす~主に教育の分野において~
(指導:春本先生)中国哲学(諸子百家・儒教・仏教・道教)の内、特に、中学・高校の教科書で用いられている『論語』・『孫子』・『韓非子』について調査をし、その教育的効果について考察をした。結論的には、上記の中国古典の学習は学校教育で終了して、そこで終えてしまうものでは無く、卒業後も生涯において学ぶべき蘊蓄を多く含んでおり、中国哲学と現代人・現代社会との兼ね合いについて、これからもより考察を深めて行きたい、とした。・・・因みに、この学生は、大正大学卒業後は大正大学大学院文学研究科博士課程前期宗教学(東洋哲学)専攻に進学して、よりその学を究める予定である。
最近、『論語』を素読する(「し、のたまわく…」と声を出して読む)という勉強法が見直されていて、子ども論語教室があちこちにできていますね。
この卒論もタイムリーです。
④『孫子』についての一考察
(指導:春本先生)これは『孫子』の言葉では無いが、「強くなければ生きて行けない。優しくないと生きている価値がない」と言う名言がある。現代社会に於いて、負けていいと言うことは無い。強く、勝たなければならない。そして、更に同時に、優しさも忘れてはならない。「1位ではなくて、2位では何故いけないのですか」と仕分けの人は言っていたが、このような精神でオリンピックやサッカー・ゴルフ等で戦っている者がいるのであろうか。ケースバイケースは理解しているつもりではあるが、とにかく勝たなければならない。敵にも自分自身の人生にも、いろいろな場面で人や国も勝たなければならない。「戦わずして勝つ」・「彼を知り己を知る者、百戦して殆(あや)うからず」と『孫子』は言う。この精神は国際社会に於けるその一員としての日本が、今、学ぶべきものであると考える。このような『孫子』の言葉に多く耳を傾ける時期が、今、日本には来ていると考える。
『孫子』は古代中国の兵法書。
「強くなければ生きて行けない。優しくないと生きている価値がない」は20世紀アメリカのハードボイルド小説『プレイバック』に出てくる、探偵フィリップ・マーロウのせりふですね。
『孫子』も最近ビジネス界でブームです。DSまで出ていますね。
就職の面接で話題にしたら、面接官と話がはずみそうです。
宗教文化の分野では、文学・映画・アニメ・ゲーム等の中に宗教性を読みとる というアプローチの卒論があります。
①『封神演義』の宗教性についての一考察
(指導:春本先生)明時代の『封神演義』は「中国四大奇書」である『三国志演義』・『水滸伝』・『西遊記』・『金瓶梅』とは少し異なり、殷周革命期に於ける宗教文学の体を為しており、更に、SF・ファンタジーの範疇に属するものである。この『封神演義』に於ける登場人物の行動原理が儒教・仏教・道教のどの宗教に影響を受け、関係するものなのかの考察をした。結論としては、『封神演義』は道教を主軸に儒教、仏教、その他の民間信仰等を取り入れて作られた世界観を持つ、とした。・・・・因みに、この学生も、大正大学卒業後は大正大学大学院文学研究科博士課程前期宗教学(東洋哲学)専攻に進学して、よりその学を究める予定である。
『封神演義』といえば、少し前に、『週刊少年ジャンプ』の連載漫画がありましたから、なじみがある人も多いのではないでしょうか。
こういった題材も、大学院につながる研究になるのですね。
こういった題材も、大学院につながる研究になるのですね。
②ディズニー作品の宗教観
(指導:教務主任)『シンデレラ』『白雪姫』『ピノキオ』などの、よく知られたディズニー・アニメ。これらにはどれも原作があることは皆さんご存じだと思います。ディズニーは原作を、かわいらしく安全なものにとパッケージ化して成功したため、少し前には、逆に、「原作(グリム童話など)は本当はこわいんだぞ」という本が人気を呼んだりしました。しかし、それらの原作とディズニー作品の違いは、残虐性の有無だけでなく、宗教観にもあります。創業者、ウォルト・ディズニーは、「原理主義」とも呼ばれる厳格なキリスト教プロテスタントの家庭で育ったのです。同じキリスト教圏といっても、それはヨーロッパの民話やカトリックの世界とはだいぶ異質な宗教性です。その「原理主義」的宗教性はディズニー作品に流れ込んでいるのか、それは私たちにも影響を与えるようなものかを、丹念に分析したのがこの卒論です。
③日本とアメリカのゲーム嗜好の比較
(指導:教務主任)日本で大人気のドラクエが、なぜかアメリカではあまり売れないといった、ゲーム業界の「謎」がいくつかあります。この卒論は、どのゲームが売れるか、売れないかという嗜好の違いが、日米の宗教伝統の違いに関係しているのではないかという仮説を立て、検証したものです。嗜好は、「好き」という積極的な理由によるものと、「タブー」という消極的な理由によるものに分類でき、その両方に宗教的原因が考えられます。単なる印象論にならないよう、毎年のゲーム売上ランキングで、宗教(神話を含む)をモチーフにした作品が何作入っているか、日本については14年間分、アメリカについては10年間分調べました。
また、オーソドックスな、神話や儀礼の研究もあります。
①「追放された神々」から見る比較神話研究―タブー侵犯の意味―
(指導:教務主任)「北まくらはいけない」とか「夜、爪を切ってはいけない」とか、聞いたことがありますか? これらは宗教的理由による「タブー」というもの、日本的にいえば「縁起が悪いと避けられていること」です。この卒論は、神話の世界、つまり、神々にもタブーがあること、しかも、どの神話にも敢えてタブーをやぶる者が、示し合わせたかのように現れることに注目します。たとえば日本神話のスサノオ。ギリシャ神話のプロメテウス。北欧神話のロキ。これらの神々は、規律を乱すいたずら者(専門語では「トリックスター」)でもあり、人間社会に新しい文化・風習をもたらす英雄(専門語では「文化英雄」)でもあります。つまり、人間に火を使うことや農耕を教えたのはそういった神々なのですが、しかしなぜ、その前段階としてタブーをやぶる必要があったのか、そのタブーにはどんな意味があるのかを探究しました。
②儒教文化についての一考察 ―日本の葬儀に於ける影響について―
(指導:春本先生)大阪大学名誉教授の加地信行先生は「日本の仏教は8割が儒教、1割がインド仏教、1割が道教である」としている。本当であろうか?日本の葬儀とは何か?について考察をした。結論としては、日本に於ける葬儀に儒教の影響がある事は明確な事実であり、死者祭祀を外来から取り入れ、より高度な文化を求めた結果が、今日の日本に於ける葬儀なのである、とした。
葬式も、いる・いらないという議論がありますが、日本の葬式って何教式なのか ご存じでしたか? お坊さんが担当するからといって、仏教式かというと、微妙らしいというのがこの卒論の出発点です。
こちらはタイの仏教徒の葬式ですが
見た目ややることが日本と違うだけでなく、東南アジアに広がる上座部仏教では、死者の供養より、生きている人に対して諸行無常を説くという面が強いとききます。
さらには、歴史上の思想・宗教の変化や、ある特定の時代において社会運動となった思想(いわば「生きられた思想」)を研究した卒論もあります。
①宇宙観をめぐる宗教と科学の対立―絵画表現を踏まえて―
(指導:司馬先生)「無原罪のお宿り」という宗教絵画の中に、ガリレオの観察した月が描き入れられていることを発端として、ガリレオ裁判の経緯をつぶさに検討するとともに、16~17世紀における宇宙観をめぐる対立を軸として、近代思想形成の萌芽を探る。
「無原罪のお宿り」とは、キリスト教の聖母マリアが、その母アンナの胎内に宿ったときから、原罪のけがれを免れていたというカトリックの教え。つまり、マリアはイエスの母なので、生まれたときから清らかな体だったはず、という信仰です(ややこしいのですが、この時は処女懐胎ではありません。処女懐胎はマリアがイエスをみごもるときに起きた、と信じられています)。
左はイタリアのピエロ・ディ・コジモによる「無原罪のお宿り」(1505頃)、
右はスペインのムリーリョによる「無原罪のお宿り」(1650頃)
右はスペインのムリーリョによる「無原罪のお宿り」(1650頃)
②白バラ運動を考える―絶対主義体制下における精神の独立性―
(指導:司馬先生)ナチズムに対する抵抗運動の様々な形を、キリスト者の立場やマルクス主義の立場等に分類するとともに、その中でミュンヘン大学の学生による「白バラ」運動の特色を浮かび上がらせ、それが精神の独立性への純粋な動機に基づいたものであることを明らかにする。
1つ前のブログで、司馬先生がお薦めした『白バラは散らず』という本は、この「白バラ」運動の中心となったショル兄妹のことをつづったものです。『白バラの祈り』という映画にもなっています。
(右:ゾフィー・ショルの切手)
(星野先生は本年度はサバティカルのため指導した卒論はなしとのことでした。来年にお話をうかがいます。)
いかがでしょうか。哲学・宗教文化コースは、卒論も実に多様で豊かです。
卒論のゼミでは、他の人がどんな卒論を書いているかもわかり、お互いに学び合うこともできます。
長さは20,000字以上というのが規定ですが、皆、教員の指導のもと、それを軽々と越えて書いています。
1年生の皆さんがどんな卒論を書くのか、今から私たちも楽しみです!