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鴨台会報・ホームページ連載企画「My Way -私の歩んできた道-」・・・2014年度第3回 伊藤 淑子先生 『出身地岡山で大学の教壇に立つ』が掲載されました
鴨台会報NO.96のホームページ連載企画
「My Way -私の歩んできた道-」
(文学部 伊藤 淑子 教授)
今回は続編 第3回
『出身地岡山で大学の教壇に立つ』です。
大学院を修了した先生は、いよいよ大学教員生活をスタートすることになります。忙しい日々の中でも、海外の見聞、東京での勉強など、精力的に活動を続けました。
●ナサニエル・ホーソーン①縁の地へ
大正大学着任前に出身地の岡山の短期大学と大学で教えていました。岡山に赴任したのは母の勧めもあったからです。もしかしたら母は寂しかったのかもしれません。
思い出といえば、前任校時代に短期研修生として海外で過ごしたことでしょうか。アメリカ・ロードアイランド州の州都プロビデンスにあるブラウン大学に、2ヶ月ほど短期研究生として受け入れて頂くことができました。大学院時代に研究したナサニエル・ホーソーンが生まれたのがここの近くだったこともあります。寮に住み、図書館で調べ物をして過ごしました。休日にはコミュータトレイン②を利用して、大学院時代に研究をしたナサニエル・ホーソーンの縁の地を訪れることもできました。
ちょうどプラザ合意③(1985年)で円高が進行し始めた頃。かつては1ドル360円の固定相場制で外貨持ち出しに規制があるという時代がありました。現在1ドル約100円程度であることを考えると、いまでは信じられないほど、外国に行くことが簡単ではない時代でした。それでも外国に行ってみたい、という気持ちは強く、大学院時代には、国際交流事業「青年の船」でオーストラリアとニュージーランドを訪れたこともあります。インターネットもない時代です。海外に行くというのはとても大きな体験でした。
岡山での教員時代。
ゼミの学生と共に・・・
●毎週、東京と岡山を往復して勉強を続ける
岡山で働き始めることになりましたが、一方で、東京で勉強を続けたいという気持ちも持っていました。当時の指導教授も「機会があれば東京で勉強したほうがいい」「母校とつながりを断たない方がいい」と助言してくれました。
そこで、在職しながら週1日は母校のゼミに参加することにしたのです。東京と岡山を往復すると1回3万円ぐらい。給料のほとんどを注ぎ込みました(笑)。若い頃の投資は無駄にならないと言われますが、それだけを信じて通っていたわけです。しかも日帰りです。正直、何をやっているのだろう、と気持ちが揺れたこともありました。
そんなことを続けていると、だんだん疲れてきて、東京に拠点が欲しいと思うようになりました。ちょうどその時にプロポーズしてくれたのが現在の夫です(もちろん住まいだけが目的ではありませんから誤解なく!)。結婚後、しばらくは私の単身赴任が続きました。私の周りには、それぞれのキャリアを積むために違うところを拠点にするというカップルもたくさんいて、珍しいことではありませんでした。ただ私の夫は研究者ではないので、そういう生活は予想外だったようです。いろいろと問題も起こりましたが、忍耐強く夫が理解してくれたことに、いまでは心から感謝しています。
次回のテーマは「大正大学へ着任 ?母として、教員として」大正大学着任当時のお話し、家事と仕事の両立の様子をうかがいます。
① ナサニエル・ホーソーン アメリカの小説家。マサチューセッツ州のセイラムに生まれる。
ピューリタン共同体を背景に、善と悪や罪を扱った宗教的な内容の作品が多い。
② 大都市の都心と郊外との間を結び、通勤・通学に供される目的で主に運行されている列車やその路線。
③ プラザ合意 1985年9月22日、G5(先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議)により
発表された為替レート安定化に関する合意。