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比較文化専攻

平成24年度大学院「比較文化専攻」修士論文の内容紹介!

 

はじめに

3月ですね。今年度と来年度の境界ですね。この一年を振り返り、新たな一年を展望する――このような日々でしょうか…。

 さて、今年度、大学院比較文化専攻に提出された修士論文の概要を紹介します。君島さんと鳥飼さんは、指導教授のシャウマン先生と綿密な相談を重ね、全教員がコメントする厳しいゼミでの発表を何度も経験しながら、修士論文を完成しました。私も何回も発表を聞きましたが、そのたびごとに、進歩が見られました。

 2人の修士論文は、「比較文化専攻」の論文に相応しく、種々の「比較文化論的考察」を取り入れています。

 

 

森村泰昌による『信貴山縁起絵巻』の改作

君島彩子

この論文は現代美術作家である森村泰昌が、2006年に制作した映像作品《野にありて飛べ》の分析をおこなったものである。森村が制作した作品の多くは、広く一般に知られた絵画や有名人などに自ら扮し、撮影を行うセルフポートレートである。研究対象となる《野にありて飛べ》も平安時代の絵巻物『信貴山縁起絵巻』に描かれた「剣の護法」を森村が演じている。この作品はNHKの依頼によって制作され、テレビ番組『国宝“信貴山縁起絵巻”の大宇宙』の中で発表された。

森村は《野にありて飛べ》の制作過程において、宗教的存在である「剣の護法」に自ら「なる」試みを、恐れ多い行為であると感じていた。しかし、「剣の護法」に似せることによって少しずつ神仏に近づき、作品制作を宗教的行為へと近づけることが可能ではないかとも考えていた。このような森村の制作に対する態度を作品の中から読み取れるのか検証をおこなった。

まず、森村作品における先行研究をもとに、二項対立の視点から分析をおこなった。《野にありて飛べ》は、テレビ番組のために制作された作品であり、美術館で発表される作品とは違う作者と鑑賞者の関係性を示した。また、森村が制作の基本としてきた「まねぶ」は「真似る」と「学ぶ」をあわせる行為であり、森村にとって模倣することは、盗用ではなく対象に対する深い考察を必要とした。さらに、森村が扮した「剣の護法」は非人間でありながら子供の形をしており、性を超越した存在であった。そのため「男/女」で分けることのできない、サードージェンダーとして分析することが可能であった。

しかし、《野にありて飛べ》の理解には二項対立の視点だけでは不十分であった。そのため《野にありて飛べ》の中で「剣の護法」になる行為を宗教的視点から分析をおこなった。「剣の護法」は、様々な信仰の中から生まれた存在であり、本来は目に見ることができないため、憑り代に憑依によってその存在を確認することができる存在であった。宮坂敬三が指摘したように、森村のパフォーマンスと憑依されたシャーマンの類似性があり、《野にありて飛べ》の制作段階において森村は、トランスのような状態になることで「剣の護法」に憑依させる依代としての身体を示した。

また、森村が扮した「剣の護法」は本来、依代に憑依するそのものであった。つまり視覚的に視聴者に示されるのは、憑依する主体としての「剣の護法」の姿であると同時に目に見えない「護法」が憑依する依代としての姿であった。この矛盾をつなぐため、森村は音を使って自らの身体の不在によって、憑依する主体「剣の護法」を表現したのである。

このように森村の《野にありて飛べ》において、美術の作品の中からも宗教行為を読み取ることが可能であった。そして、論文の成果の1つは、これまで現代美術批評の中で殆ど触れられることのなかった、森村の宗教的側面を示したことである。

 

ポール・シュレーダー監督の映画『ミシマ』

鳥養博之

本論文では、アメリカ映画『ミシマ』を分析し、ポール・シュレーダー監督による三島由紀夫像の構築を考察した。この1985年の映画は、総製作者をフランシス・フォード・コッポラとジョージ・ルーカス、主演を緒方拳、他の出演者は坂東八十助、沢田研二、永島敏行等と、日米の豪華な映画人がシュレーダー監督の下に集まって製作した作品である。そしてこの映画の評価は、三島の切腹についての描写について賛否両論となるも、カンヌ映画祭最優秀芸術貢献賞を取った作品である。

映画の構成は、1970年11月25日の市ヶ谷駐屯地における三島と楯の会4人による決起行動を主軸として、三島の回想と、三島の3作品(『金閣寺』、『鏡子の家』、『奔馬』)を3層にして重ね合わせ、更に全体を4章立てにした複雑なものになっている。この3層4章立てになった映画の内容は、まず三島の自殺の思想を美学に置き換え、それに基づいて展開する。第1章「美」では、三島の自殺の思想である美学の源泉と誕生を描写し、『金閣寺』を挿入している。第2章「芸術」では、三島の美学が肉体改造を経て、作品化する過程を描き、『鏡子の家』を挿入している。第3章「行動」では、作品化された三島の美学が演じられる行為となる過程を描き、『奔馬』を挿入している。第4章「文武両道」では、演じられる行為にまで成熟した三島の美学がクライマックスに達して、切腹という現実の死へと至る過程を描き、それまでに挿入されている3作品の最後の死の場面が挿入されている。

この映画を作ったポール・シュレーダー監督は、ロバート・デ・ニ―ロ主演の『タクシー・ドライバー』の脚本を20代で書いて一躍注目を浴び、その後『レイジング・ブル』や『最後の誘惑』等の話題作の脚本を書きつつ、監督も手掛けるようになり『アメリカン・ジゴロ』、『ライト・スリーパー』等の作品を製作している。

米国人であるシュレーダー監督が、なぜわざわざ日本の作家である三島由紀夫を取り上げて、その伝記映画を製作する気になったのかというと、その動機は4つある。第1の動機は、スペクタクルな死を遂げた三島由紀夫という人間に対する興味である。第2の動機は、三島由紀夫と彼自身との相似性(同調性)である。第3の動機は、自殺願望の主人公の映画を作る意志を持っていたことである。第4の動機は、『タクシー・ドライバー』の脚本を書いた時の社会的批判(無教養な主人公を通して自殺を美化して、無学な暴力的な若者を誤った方向へ導いている)に対する自己弁護である。

このような動機を持ったシュレーダー監督は、映画『ミシマ』の主題を、人生と芸術の相克とし、その描写は、人生と芸術の相克に悩む芸術家(三島由紀夫)が、いかなる経緯で、その相克を解消するための答えを、自殺という死の選択にするのか、に焦点をあてている。

本論文の研究成果は、シュレーダー監督が、どのように先行イメージ(ヘンリー・スコット=ストークス、ジョン・ネイスン、ドナルド・キーン、アイヴァン・モリスの4人が作った三島像)を利用して、独自の教養の高い世界的に著名な日本の芸術家像(血と死のイメージを投影させた三島の人生と、批判的なイメージで描かれた三島の自殺)を構築したかを明らかにしたことにある。

 

おわりに

来年度も、君島さんと鳥飼さんに続いて、面白くかつ学問的な修士論文が提出されることを期待しています。 

 

星川啓慈(比較文化専攻長)