学部・大学院FACULTY TAISHO
比較文化専攻
戦争と文化(17)――聖書には「汝、殺すなかれ」とあるのに、どうして、ユダヤ=キリスト教は戦争や暴力行為を後押ししてきたのか?
はじめに
第14回のブログで言及したグロスマンとクリステンセンの『「戦争」の心理学――人間における戦闘のメカニズム』(On Combat: The Psychology and Physiology of Deadly Conflict in War and in Peace, Baror International Inc., 2004)を手引きとして、標記の問題について考えましょう。
この本は、副題に”Deadly Conflict”(相手の命を狙う戦闘)という表現が見えるように、激戦をした/している/これからする兵士・戦士、凶悪犯と銃撃戦をした/している/これからする警察官・法執行官についての著作、そうした人々がより良い仕事をするための著作です。いろいろと教えられることが多かった一方で、いろいろと複雑な気持ちになりました。
銃社会のアメリカと違って、ティーンエイジャーが銃の乱射事件を起こす可能性がほとんどない日本、「今のところ」という限定つきながら、自衛隊員が平和維持活動のために「相手の命を狙う戦闘」に参加することのない日本に住んでいて、幸せだと感じました。
今回は、聖書の「汝、殺すなかれ」をめぐるグロスマンの解釈について考えてみましょう。旧約聖書の「出エジプト記」(20章)の中にあるモーセの「十戒」の第6戒は「汝、殺すなかれ」というものです(註1)。また、新約聖書の「マタイ福音書」の5章21節には、次のように書かれています――「昔の人々に〈殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない〉と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである」と。いうまでもなく、人を殺すことは絶対に許されることではありません!
宗教と暴力
世界の諸宗教は平和を実現するために、多くの努力をおこなっています。たとえば、世界的規模で活動している「世界宗教者平和会議」というものがあり、5年に1度、世界のどこかの国で大会を開いています。私も数年前、京都で開催されたとき、オブザーバーとして参加させていただきました。
しかし、その一方で、世界の諸宗教は武力衝突(戦争・紛争など)を精神的に後押ししてきたことも事実です。これについては、世界の宗教学者のほぼ全員が同意するでしょう。
たとえば、2005年に「国際宗教学宗教史会議第19回世界大会」が東京で開かれました。私も、「公共哲学」で著名な山脇直司先生(当時東京大学教授)のご協力を得て、パネルを組みました。その大会での発表数はなんと1300近くにのぼりました。その時の総合テーマは「宗教――相克と対話」でした。そして、5つのサブテーマが設定されましたが、そのうちの1つは「戦争と平和、その宗教的要因」でした。総合テーマとサブテーマの設定に現われているように、諸宗教が種々の対立や武力衝突と深い関係にあることを、世界の宗教学者が認めているという事実があるのです。
キリスト教の教理と暴力・戦争
1945年8月6日、原爆を搭載したアメリカのB-29「エノラ・ゲイ」が日本本土に向かう時、「戦争の終わりが早くきますように、そしてもう一度地に平和が訪れますように、あなた〔神〕に祈ります。あなたのご加護によって、今夜飛行する兵士たちが無事にわたしたちのところへ帰ってきますように」というお祈りをしたことを紹介しました(第11回目のブログ)。簡単にいうと、当時のほとんどのアメリカ人は「日本は凶悪な国である、この国との戦争には絶対に勝利しなければならない」と思っていたのです。そして、日本への原爆投下が「平和実現の手段」だったのです。
また、時代は前後しますが、キリスト教界は、エルサレム奪還に十字軍を派遣しましたし、プロテスタントとカトリックに分かれて血で血を洗う宗教戦争をくりひろげたこともありました。
しかしその一方で、先に紹介したように、聖書には「汝、殺すなかれ」、さらにいうと「汝の敵を愛せよ」(マタイ福音書、5章44節)と書かれています。
こうした対立すると思われる事実を、どのように解釈したらいいのでしょうか。キリスト教諸国の歴史は、これらの教えと矛盾しているのではないでしょうか。
アメリカの著名な教理神学者にリンドベックという人がいます。『教理の本質』(1984年)という世界的な名著の中で、次のように論じています。
キリスト教の大部分にわたる状況下では、一般に、平和主義は、たとえ「条件付きで必要」だとしても、「愛」というキリスト教の規則の「絶対に必然的な」結論ではないのである。
つまり、「平和主義」はキリスト教の絶対的で普遍的で本質的な教えではない、ということです。キリスト教が武力衝突に正統性を与えても不思議はないのです。
このことは、西洋の歴史が如実に示しています。さらに、キリスト教における傑出した人々、たとえばアウグスティヌスは「愛からなされる迫害」を容認したとか、晩年のルターはユダヤ教徒に酷いことをしたと論じる学者もいます。まあ、こうしたことは昔の話だとして片付ける人もいるでしょう。けれども、現実世界を見ると、そのように簡単に片づけることはできないのではないでしょうか? 今回のブログも、ズバリこのことと関係しています。
「汝、殺すなかれ」?――ユダヤ/キリスト教的殺人観
アメリカの兵士は、一端命令が下れば、戦場で敵と死闘をくりひろげなければならないという宿命にあります。これは現実です。アフガニスタンやイラクで亡くなったアメリカ兵の数が、頻繁にニュースで報道された時期がありました。そうした兵士の中に、心の奥底で、「汝、殺すなかれ」という聖書の言葉と自分の戦闘行為とが矛盾することに悩むものがいても、なんらの不思議もありません。
たとえば、以下の話はグロスマンが取り上げている実話です。
第一次世界大戦の初期、若き陸軍新兵アルヴィン・ヨークは、基礎訓練期間中に上官のもとへ行き、次のように言いました。自分はクェーカー教徒である。子どもの頃から、「汝、殺すなかれ」と教えられてきた。だから、今やれと言われていること〔敵を殺すことと関係する訓練〕は自分にはできない。
グロスマンは、たとえばこうした兵士に聖書の上記の言葉をどのように解釈してやるか、を問題にしているのです。彼によれば、この「殺すなかれ」を文字通り厳しく解釈しているのは、アメリカのユダヤ教・キリスト教諸派の中でも、安息日再臨派、メノー派、シェーカー教徒、クェーカー教徒のみです。上の新兵ヨークもそのクェーカー教徒です。
ヨークの言い分を聞いたある1人の将校が、その言葉の解釈を彼に説明してやり、「後は自分で考えるように」と言いました。その後、ヨークは、数多くの武勲を立て、名誉勲章をもらうまでになりました。どうして、殺人行為を拒否していた新兵が、直接/間接の殺人行為をすすんで行なうようになったのでしょうか?
「汝、殺すなかれ」vs.「汝、謀殺を犯すなかれ」
Dr. イグネイシャス・ピアザは、以下のように論じています。
自分と同じ人間を殺す覚悟はできているか。自分の命を護るため、あるいは周囲の仲間たちの命を救うために、別の人間の命を奪うという道義的決断と、宗教的な倫理観との折り合いを(前もって)つけておかないと…一刻を争うときに決断を下すのはむずかしい。〔そうなれば、兵士としての任務に支障をきたす。〕
もうおわかりでしょう。新兵ヨークは、将校の話に触発されて、「別の人間の命を奪うという道義的決断と、宗教的な倫理観との折り合いをつけた」のです。
「謀殺」というのは、辞書的には「計画して人を殺すこと」です。いうまでもなく、これは「悪い」ことです――この場合、戦時ではなく平時において「計画して人を殺すこと」です。これに対して、上の脈絡での「殺す」は、自分が生き残るため、愛する家族を護るため、仲間を救うため、自分の国を護るため、平和を実現するため、正義を護るためなどの戦いなのです。また、グロスマンは言及していませんが、「殺す」対象は何なのか、これも問題になるでしょうね。いうまでもなく、この対象は、「一般的な人」ではなく、「敵」です。
読者の中には、「その将校の解釈は思い付きでしかない」と批判する人もいるでしょう。こうした批判を予想してか、グロスマンは、「汝、殺すなかれ」は「汝、謀殺を犯すなかれ」の意である、という主張の正当性を論証します。
グロスマンは、数少ない例外があるとしても、現代の主な翻訳およびヘブライ語原典からのイディッシュ語のすべての翻訳では、この戒律は「謀殺を犯してはならない」と解釈されているといいます。つまり、ユダヤ教とキリスト教諸派の圧倒的多数は、「汝、殺すなかれ」を「汝、謀殺を犯すなかれ」と解釈しているのです。その他にも、欽定訳聖書(1611年)や聖書の諸所にも言及しながら、彼は自分の主張を補強しています。そして、その極めつけは、「ローマ人への手紙」です。
権威者は、あなたに益を与えるための神のしもべなのである。しかし、もしあなたが悪をおこなうなら、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神のしもべであって、悪をおこなう者に対しては、怒りをもって報いるからである。(13章4節)
グロスマンはこれを「戦士にとって最も重要な章、最も重要な節だろう」といいます。アメリカから遠い国で国際法のもとにある平和維持部隊員でも、アメリカ国内の法執行官や警察官でも、剣を帯びる者は法の権威の下にいて、「いたずらに剣を帯びているのではない」のです。悪に対しては、剣を抜くのです。「あなたが悪をおこなうなら」、「権威者」は剣を抜いてあなたを刺す、銃であなたを撃つ、ということです。
さらにもう一つ、グロスマンは、日々身体を張って仕事をするプロの戦士(兵士・警察官・消防士など)に当てはまる言葉として、イエスの次の言葉を挙げています。
人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。 (「ヨハネ福音書」15章13節)
このように見てくると、グロスマンによれば、正義のために/正しいことのために敵を殺傷する行為は、ユダヤ=キリスト教においては肯定されるべき行為であるということになります。
当然、アメリカにも「平和主義」を貫く聖職者も存在します。しかし、「平和主義を唱える聖職者に多くの兵士は怒り、混乱し、裏切られたように感じ、なかには信仰に反感を抱くものさえいる」そうです。「平和主義」と今回紹介しているいわば「道義的現実主義」とのいずれが正しいかについては、議論が分かれるでしょう。しかし、戦闘に赴く兵士にとって、平和主義の聖職者よりも、道義的現実主義の聖職者のほうが頼りになるに決まっています。なぜならば、前者は兵士の職務を否定し、後者はそれを肯定しそれに正統な意味付けをしてくれるからです。
このように見てくると、教理神学者のリンドベックのいうことと、元兵士であるグロスマンのいうこととの間には、やはり密接な関係があるような気がしてなりません。
戦争が身近なアメリカの若者と、戦争と遠いところにいる日本の若者
現在でもアメリカは、一国としては世界最強の軍事力を誇る国です。アメリカの兵士は、一端命令が下ると、直接/間接に殺人行為を実行しなければなりません。アフガニスタンやイラクを始めとして、世界の諸地域にアメリカの若者は派兵されています。われわれ日本人に、おそらく、彼らの心情は現実味をともなっては理解できません。
大学4年生の時に、私はアメリカに留学していました。そのとき「ディア・ハンター」という映画を見ました。そのなかで、捕らえられていたアメリカ兵が、自分たちを監視していたベトナム兵を射殺して全員助かったとき、映画館のなかで大きな拍手が沸き起こりました。私は圧倒されてしまいました。
日本人には、このときのアメリカの若者の気持ちは理解できないでしょう。なぜなら、徴兵でベトナム戦争に送られるということとは無縁だからです。そのシーンにアメリカ人ほどリアリティを感じないからです。日本人とアメリカ人は、同じ映画を見ているのではないのです…。
グロスマンの根柢には、次のような考え方があります。アメリカの兵士は「アメリカや、世界の或る地域や、世界全体の〈悪〉から人々を護る」という尊い立場にある。そして、命令が下されると、たとえ殺人におよぶ任務であってもそれに従う義務がある。だから、人を殺すことは、兵士にとって避けられない仕事である。そうだとしたら、兵士が戦場で命を落とさないように、自分の任務に疑問を抱かないように、事後PTSDを始めとする精神障害に陥らないようになどと、種々の精神的・物理的な支援をしてやらなければならない。
今回のブログのテーマもそうした、グロスマンの大きな観点のなかで取り上げられた事柄です。私には、彼の著作の意図がよく理解できます。
おわりに
グロスマンは、アメリカ人として「基本的にアメリカの戦闘行為は正しい」という前提に立っています。しかし、対峙する2つの陣営、つまり「アメリカ vs. アンチ・アメリカ」のうち、どちらが正しいか決めることができるのでしょうか? 『「戦争」の心理学』では、太平洋戦争当時の日本や特攻隊は「悪」の典型です。しかし、われわれ日本人は「はい、そうです」と単純にいえるでしょうか。
太平洋戦争は大きく分けて、2つの側面をもっています――前半の加害者としての側面と、後半の被害者としての側面です。広島に原爆を落とす直前になされた祈りを知ったほとんどの日本人は、素直にエノラ・ゲイの乗組員の祈りを受け容れられないでしょう。
次回は、「テロ」を題材にして、「対峙する2つの陣営の正邪を決められるのか?」という問題について考えてみましょう。これは難しい問題です。答えは出せません。しかし、われわれ一人ひとりが考えなければならない問題です。
そしてその後(第19回目)、ふたたびグロスマンの『「戦争」の心理学』にかえり、激しい戦闘状態になると人間はどのような生理状態・精神状態になるかを取り上げることにします。戦闘においては、大失禁・小失禁も恥ずかしいことではありません。身体のメカニズムがそうなっているのです。
このブログのアップは、毎月1日です。次回は7月1日です。
星川啓慈(比較文化専攻長)
【註】
(1)ユダヤ教進歩派ラビである、J・マゴネット氏によれば、「ヘブライ語動詞“ラツァハ”(ratzach)は殺人にのみ言及されます。すなわち、故意に、不法に命を取ることです」。
さらに、小林洋一氏の見解を紹介します。「この動詞の使用の唯一の例外は、「血の贖い人」(新共同訳「血の復讐をする者」)の役割についての議論の中にある。誰かが他の者を誤って殺したとき、彼は「逃れの町」の一つに逃れて、裁判が行われるまで、そこに留まることができる。しかし、そこに至る途上で、または、もし彼がそこを去るならば、殺された人の家族の一人、いわゆる「血の贖い人」は、その町の外で彼を捉まえるならば、彼を殺すことが許されている(民35・27)。 この特別な事例で使われている言葉もまたratzachである。しかし、この言葉の選択は「尺には尺を」(measure for measure)の言語の中に適合するためのものである。すなわち、彼は「殺人者」(rotzeach)に対して「殺人」(ratzach)することが許されている。もちろん、「逃れの町」の制度は、まさにこの種の報復殺人を阻止するために作られたものである」(小林洋一編『ラビの聖書解釈―ユダヤ教とキリスト教の対話』新教出版社、2012年)。
【参考文献】
(1)グロスマン/クリステンセン(安原和見訳)『「戦争」の心理学――人間における戦闘のメカニズム』二見書房、2008年、第4部第23章。
(2)リンドベック(田丸徳善監修/星川啓慈ほか訳)『教理の本質――ポストリベラル時代の宗教と神学』ヨルダン社、2003年、第4章第3節。
(3)星川啓慈『対話する宗教――戦争から平和へ』大正大学出版会、2006年。
(4)石川明人『戦争とは人間的なものである』並木書房、2012年。