学部・大学院FACULTY TAISHO
比較文化専攻
戦争と文化(20)――「宗教戦争」の特徴とはどのようなものだろうか?: 「フォルト・ライン戦争」と「コスモス戦争」
はじめに
先回の「番外編」では、宮崎駿の『風立ちぬ』と、零戦など飛行機の話をしました。なかなか好評でした。
今回で、このブログも20回目になります! 我ながら、20回もよく書き続けてきました(笑)。いや、番外編をいれれば、もっと書いていますね! 今回は20回目という記念すべき回ですから、いつも以上に力を入れて書きます。
今回のテーマは「宗教がかかわる戦争をどのように捉えるべきか」です。これは、非常に大きな問題です。同時に、これは人の心にかかわる問題でもあるので、1つの主張を実証するのはかなり難しい面もあります。反対に、ここでの議論を反証するのも難しいはずです。
以下の議論では、ハンチントンの「フォルト・ライン戦争」とユルゲンスマイヤーの「コスモス戦争」をとりあげます。
宗教とは何か
宗教戦争の特徴について議論するまえに、「宗教」をどのようなものとして理解するかについて考えてみましょう。当然のことながら、「宗教」をどのように捉えるかは、人によって異なります。たとえば、キリスト教信者と神道に携わっている人とでは「宗教」に対するイメージがかなり異なるのは、自然なことです。
ところで、皆さんは「自分とは何だろう?」「自分は何のために生きているのだろう?」「死んだらどうなるのだろう?」「世界って何だろう?」「世界はどこに向かっているのだろう?」などと考えたことはありませんか。とりわけ若い時期には、自分についていろいろと思いをめぐらすものです。
そういったことがなくても、いわゆる「無意味感」に苛まれたことはありませんか。「生きていても仕方がない…」「もっと生きがいのある生き方をしたい…」などと。少しでも「無意味さ」を感じたら、それは「生きることの意味」を求めているからです。意味を求めていないと、無意味感に襲われることもないでしょう。
無意味さを感じることと、意味を追い求めることとは、表裏一体なのです。人間とは、意識するかしないかは別として、本質的に、生きることの意味を求める動物だと思います。
宗教にはさまざまな教えがあり、それらが1つの世界観(世界をいかに捉えるか)を形作っています。そうした教えは、儀礼や儀式や習慣などとも結びついて、世界観を作り上げています。
また、宗教には「この世を超えて出る」という側面があります。「神」というのはまさにその代表的なものです。人の生き方や世界に意味を与えるのであれば、それらと同じ次元にあってはならないでしょう。それらよりも高い次元にあって初めて、そうしたことができるのです。
右で述べたような事柄をまとめて、やや抽象的ですが、ここでは次のように「宗教」を捉えたいと思います。
(1)宗教とは、信者の人生や世界に究極的な意味づけをする、秩序だった意味の体系である。
(2)宗教には、神観念や神聖性など、この世を超越する要素がみられる場合が多い。
あとでユルゲンスマイヤーの「コスモス戦争」の話をしますが、この「秩序だった意味の体系」という部分を覚えておいてください。
宗教の「意味づけ」という働き
国際政治学者であり戦略論の大家でもある、ハンチントンという人がいます。その彼も、私と同じように、「人間は生きていくうえで、まず自分自身を定義づけなければならない」といいます。
「私は何者なのか?」という問いは、明確な答えを求めるのです。とくに、自分が困難な状況にいるとき、これまでの生き方では生きていけなくなったとき、社会が急激に変貌をとげるときなどには、アイデンティティ(自分が自分であること)が崩壊の危険にさらされるので、自己を再確認し、新しい自己像を構築する必要にせまられます。
太平洋戦争が終わるころから、多くの日本人は生き方を全面的に変えなければなりませんでした。戦争を精神的に後押しした宗教者たちの中にも、戦争が終わると、正反対のことをいう人々がいました。日本における終戦以前の社会の価値観と終戦以後の価値観との変わりようは、まさにコペルニクス的転回といえるでしょう。そうした中で、日本人は新たな生き方を模索し、自分自身を見つめなおし、再出発しなければならなかったのです。
戦争に協力した諸宗教には反省すべき点もあることは、間違いありません。それでも、宗教というものは、自分や社会の急激な変化や危機的な状況において、魅力的な解答を用意しています。それは、さきに述べたように、宗教には人生や社会や世界に対して「意味づけをする」という働きがあるからです。
文明と宗教
ハンチントンは、1996年に『文明の衝突』(原題は『文明の衝突と世界秩序の再創造』)という世界的ベストセラーを書きました。そこでくり広げられる議論には反対する人もいて、「文明の衝突」論は世界的な論争を巻き起こしました。
私も彼の主張を全面的に受け入れるつもりはありません。だいたい、世界を8つか9つの文明に分けて話をすすめるというのは、乱暴です。しかし、理論を構築するためには、細々としたことを無視しなければならないという事情もあります。
それでも、彼の唱える「フォルト・ライン戦争」に、私は共感するところが多いです。「フォルト・ライン戦争」というのは「異なる文明の間にある断層線上で勃発する戦争」のことです。地震の時など、地質が違う部分で大きなズレが生じることがあるでしょう。異なる地質が異なる文明だと思ってください。
ズバリいうと、いかなる文化・文明でも、中心的な要素は「言語」と「宗教」です。言語はたがいに意思を疎通させあうための手段であり、宗教は世界観やアイデンティティの源泉であるというわけです。そのアイデンティティをもたらす宗教は、ハンチントンの見解においても、文化・文明を規定する中心的な特徴として捉えられています。彼は「偉大な宗教は偉大な文明を支える基礎である」といい、さらに次のように語っています。
文明を定義するあらゆる客観的な要素のなかで、最も重要なのは通常…宗教である。人類の歴史における主要な文明は世界の主要な宗教とかなり密接に結びついている。そして、民族性と言語が共通していても、宗教がちがう人びとはたがいに殺しあう場合があり、レバノンや旧ユーゴスラヴィアやインド亜大陸で起こったことはそのあらわれである。
このように、ハンチントンに従えば、宗教は個々の人間や文化・文明にとってその中核をしめるものです。
ハンチントンの「フォルト・ライン戦争」
宗教が文明の根幹をなすことと、フォルト・ライン戦争を関連づけてみましょう。
たとえば、十字軍に象徴されるように、イスラム教諸国とキリスト教諸国のあいだでは、今まで数多くの戦争が勃発してきました。また、現代世界を眺めてみても、紛争の背後にイスラム教徒とキリスト教徒の対立が含まれていることもよくあります。
フォルト・ライン戦争は、キリスト教とイスラム教など、異なる宗教の間で引き起こされた戦争ともいえます。ハンチントンは、宗教とフォルト・ライン戦争を、次のように関係づけています。
宗教が文明を規定する最も重要なものなので、フォルト・ライン戦争はたいていの場合、異なる宗教を信ずる人びとのあいだに起こる。…数千年にわたる人間の歴史は、宗教が「わずかな相違」などではなく、おそらくは人間のあいだに存在しうる最も深刻な相違かもしれないことを示している。フォルト・ライン戦争が頻発し、激しくて暴力的なのは、異なる神を信じることが原因であることが多い。
1960年代から現在にいたるまで、「宗教間対話」というものがかなりさかんに行なわれています。諸宗教が話し合って相互理解を促進したり、諸宗教が難民の救済に協力しあったりすることを始めとして、「仲良くやっていこう」という動きです。しかし、ハンチントンに従えば、宗教は「人間のあいだに存在しうる最も深刻な相違」というのですから、そもそも宗教間対話は根本的な問題を抱え込んでいることになります。
宗教的アイデンティティと戦争
ハンチントンは「アイデンティティは、ほとんどの場合、宗教によって定義される」といいますが、これが劇的に現われた例をあげています。それは、「ボスニア」で見られた現象です。
歴史的に、ボスニアでは共同体としてのアイデンティティは強くなく、セルビア人、クロアチア人、イスラム教徒が隣人として平和に生活していました。三者のあいだの結婚も数多くあり、宗教的な自意識はそれほど強くありませんでした。ハンチントンは「イスラム教徒はモスクに行かないボスニア人で、クロアチア人は大聖堂に行かないボスニア人で、セルビア人は正教教会に行かないボスニア人だと言われた」と述べています。
しかし、「ユーゴスラヴィア」という広い共通認識(地図参照)が崩壊すると、曖昧だった宗教上のアイデンティティが意味をもつようになりました。そして、いったん戦闘が起こると、そのアイデンティティがますます強くなりました。共同体の意識は消えて、それぞれのグループが広い文化的・宗教的コミュニティと一体化し、自分たちを宗教的な言葉で自己規定するようになったのです。
ボスニアのセルビア人は、過激なセルビア民族主義者になり、自分たちを大セルビア、セルビア正教会、より広い東方正教会と一体化させました。ボスニアのクロアチア人は、熱烈なクロアチア民族主義者になり、自分たちをクロアチアの市民だとみなしました。そして、そのカトリック信仰を強調し、クロアチアのクロアチア人と一緒になって、カトリックの西欧と一体化しようとしたのです。もちろん、ボスニアのイスラム教徒は、それまで以上に、自分たちをイスラム教徒だと自覚するようになりました。
こうした中で、紛争はしだいに宗教戦争の特徴をおびはじめました。そして、「その闘争はヨーロツパの三大宗教であるローマ・カトリック、東方正教会、イスラム教のあいだの宗教闘争だった」「これら三大宗教は、ボスニアで境界が交わっていた過去の帝国の宗教的痕跡でもあるのだ」といった指摘もなされています。
以上で紹介したようなハンチントンの立場を一言で要約すれば、「宗教はフォルト・ライン戦争の最大で最終の要因である」ということになるでしょう。そして、その戦争は、時間的に非常に長く憎しみの度合いが強い、という特徴をもっています。
日米で戦われた太平洋戦争は、それほど宗教色が強いわけではありません。一部には「日本はアメリカの属国になった」「低強度戦争によって日本はアメリカに敗北した」という人たちもいますが、戦後、アメリカと日本は友好国同士となりました。しかし、インドやその周辺地域では、ヒンドゥ教徒とイスラム教徒の対立が断続的に数百年も続いています。これもフォルト・ライン戦争の例といっていいでしょう。
ユルゲンスマイヤーの「コスモス戦争」
世界中を飛び回って宗教と暴力の関係を研究している、ユルゲンスマイヤーという学者がいます(前回も登場しました)。彼は『グローバル時代の宗教とテロリズム』(写真参照)という本を著わしました。ここでは、その中にある「コスモス戦争」という考え方を参考にしながら、宗教がからむ戦争について論じたいと思います。
現在のわが国の報道状況から、「宗教と暴力」というと、読者はすぐにイスラム教を思い浮かべるかもしれません。マスメディアが伝えるように、「イスラム過激派」とよばれる人たちもいますし、テロとイスラム教が結び付けられることも多いです。
しかし、ユルゲンスマイヤーは「暴力を是認する思想やイメージは何も特定の宗教の専有物ではない」と強調します。つまり、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教・ヒンドゥ教・シク教・仏教など、世界の主要な宗教のほとんどすべてが、暴力行為の実行者を生んできた事実を指摘するのです。
そして、ユルゲンスマイヤーは「宗教はテロ行為の遂行に決定的な役割を果たしている」と主張します。すなわち、宗教は、殺害行為に道義的正当性をあたえ、テロ行為の実行犯に対して「自分たちは聖典に描かれたシナリオどおりに闘っているのだ」と信じこませる「コスモス戦争」のイメージを提供するのです。
その「コスモス戦争」とは以下のようなものです。
ほとんどの宗教は、冒頭でも述べたように、「秩序だった意味の体系」つまり「コスモス」をもっています。宗教がもつこうした意味の秩序体系の確立のために、善と悪、真理と虚偽、秩序と無秩序といった絶対的な二項対立をめぐって戦われる戦争を、ユルゲンスマイヤーは「コスモス戦争」と名づけました。
そして、彼は、世俗的な対立が宗教的コスモス戦争の性格を帯びる3つの特徴を挙げています。
(1)争いが、当事者の基本的なアイデンティティと尊厳を護るためのものと見なされること――争いが、当事者の命ばかりではなく宗教文化全体を護るためのものだと解されるならば、宗教的意味合いを伴う文化戦争と見なされます。
(2)争いに負けることなど考えられないこと――争いに負けることが考えられない場合、その争いは人間の?史を超えた次元で起きている、と解釈されます。
(3)争いが行き詰まり、現時点であるいは現実問題として、勝利できないこと――争いが人間の次元では絶望的なものと見なされれば、それは勝利を神の手にゆだねる宗教の次元で再考されます。
読者の中には「かなり観念的な説明だ」と感じるも多いでしょう。しかしながら、ユルゲンスマイヤーは、これら3つの特徴のどれか1つがあれば、「現実世界での紛争が、聖なる戦争として、コスモスの次元で捉えられる可能性が高まる」と論じています。
そして、当然のことながら、3つの特徴すべてが同時に備わっていれば、その可能性はいっそう高くなります。さらに、「世俗世界で始まる戦争も、解決の目処がたたず、敗北がいかに悲惨かの認識が高まるにつれて、しだいにコスモス戦争の特徴をもってくる」のです。
ユルゲンスマイヤーがいうには、たとえば、パレスチナ人とイスラエルの対立は、1980年代まで、どちら側からも宗教戦争だとは見なされていませんでした。しかし、紛争が神聖化され宗教色をおびるにいたって、それは双方の過激派にコスモス戦争と映るようになったのです。
前回のブログで紹介したような、自爆テロを決行する直前の青年の話を読むと、もう意味体系としての宗教的世界観に浸りきっていて、自爆テロを止めさせることなど、誰によっても説得不可能なような気になります。また、彼らの言い分を頭から否定することは、傲慢にすら感じられることもあるかもしれません。
世俗を破壊する宗教
コスモス戦争は、宗教同士の闘いの場合に限りません。宗教が世俗を破壊するという場合にも、コスモス戦争の様相を呈します。
ユルゲンスマイヤーのもう1冊の本である『ナショナリズムの世俗性と宗教性』では、次のように論じられています。
宗教的暴力行為の大半は…戦争のようなものだ。宗教戦争は、敵方の成員たちを犠牲者として屠り、味方の成員を殉教者として捧げる、供犠と殉教の混合種だと考えられる。しかし、身の毛のよだつ連祷の背後には、犠牲と殉教の双方およびさらにはるかに大きなもの、すなわち聖なるものと俗なるものとの二分法の理念がある。この壮大なコスモスの両勢力――究極的な善と悪、聖なる真理と虚偽――の遭遇は、一つの戦争であり、この世のもろもろの争いは、もっぱらそれを真似るのである。
ユルゲンスマイヤーは直接には聖(宗教)と俗(世俗的ナショナリズム)の拮抗を分析しているのですが、聖の側も俗の側も、ともに「壮大なコスモス」とされています。宗教がからむ戦争は、宗教vs.宗教の場合でも、宗教vs.世俗の場合でも、「壮大なコスモスの両勢力」の対決とか、「究極的な善と悪」「聖なる真理と虚偽」との闘争とみなすことができるというわけです。
秩序と無秩序
くり返しになりますが、宗教はその信者にとってかけがえのない秩序だった意味の体系/世界観だと解釈できます。また、宗教は、無秩序をなんらかの仕方で意味づける、ないしそれを自分独自の秩序のなかに取り込む、という機能をはたします。そうだとすれば、2つの宗教が対立関係にあるとき、すなわち、2つの宗教がたがいに相手の宗教を自分の意味世界のなかに抱摂できないときには、たがいに相手を「無秩序」なものと見なすことは、かなり自然なことでしょう。
ユルゲンスマイヤーも戦争における「敵」は「世界において、まったく分類のできないようなものをふくむ、混沌とし不確実であるものを代表する」と述べています。つまり、敵は無秩序の象徴として描かれているのです。
たとえば、太平洋戦争のさいの日本の「特攻隊」による攻撃は、アメリカ人には「自殺攻撃」(suicide attack)と表現されることもありますが、彼らにはこうした攻撃や、すぐに自害する日本兵の心理(生きて虜囚の辱めを受けず)はなかなか理解できなかったようです。つまり、アメリカ兵には日本兵は一種の「無秩序な人間たち」と映ったといえるでしょう。
そして、秩序は無秩序を許容できないと考えられますから、こうした場合には対立はきわめて根深いものになり、最悪の場合には、相手を殲滅させることで無秩序を自分の秩序のなかに取り込むということになります。相手を殺傷するという非人道的にみえる行為にも、「われらの神のために敵を撲滅した」などと宗教的意味付けがなされ、暴力は正当化されることになります。敵が無秩序の象徴であるとすれば、「それを消滅させてもかまわない」という判断がなされても不思議ではありません。
しかしながら、さらにここで一歩踏み込んで、以下のことを付け加えておきたいと思います。それは、ある宗教がみずからと異質な宗教を排撃するのは、相手が無秩序だからということもありますが、むしろ自分と同じ秩序だからといった一面もあるのではないか、ということです。
敵対する宗教が無秩序に見えても、それは実際には1つの秩序ですから、「みずからの宗教が、相手の宗教によって無秩序だと見なされ、相手によって殲滅させられ、相手のなかに取り込まれてしまう」という恐怖が、暴力を行使する信者たちにあってもおかしくはありません。つまり、敵対する宗教を無秩序と解釈するみずからの姿勢が、同じように相手にもある。相手を無秩序とみることと、みずからが無秩序とみられることとが表裏一体になっているのです。
戦闘の只中にある戦士たちに、こうしたことは意識されないかもしれません。けれども、人間心理の深いところでは、こうした解釈も可能ではないでしょうか。
おわりに
誤解のないようにいっておきますが、決して、宗教がいついかなるときでも暴力的・好戦的・戦闘的だというのではありません。むしろ、こうした状態になるのは例外的なことかも知れません。人間であれば、誰しも平和で平稳な生活を望むことは、いうまでもありません。しかしながら、時として宗教の暴力的・好戦的・戦闘的な側面が前面に出てくる、というのも歴史が教える事実です。
宗教と紛争・闘争・戦争とを短絡的にむすびつけることは間違いです。宗教がからむ対立・闘争について考察するときには、政治・経済・社会・歴史・民族などにかかわる諸要素も考慮にいれなければなりません。
しかしながら、さきに論じたこと、すなわち、聖なる秩序同士のぶつかり合い、聖なる秩序と俗なる秩序とのぶつかり合いには、殺戮・戦闘を肯定し、さらに、それらに意味づけをして自らの秩序のなかに取り込むという側面があります。これは、宗教がからむ紛争・闘争・戦争にとってきわめて重要な側面です。
第14回から第16回のブログで、カルドーを手引きとしながら、現代の「新しい戦争」はグローバリゼーションの影響でますます複雑化していること、敵味方の区別もできない場合すらあることを述べました。ですから、今回の論述は、あまりにも単純化された図式だ、と感じた読者もいることでしょう。
しかし、いくら戦争が複雑化しても、ハンチントンやユルゲンスマイヤーの議論は、それなりに、宗教がからむ戦争の本質をついていると、私は思っています。
その理由は、人間は、自己確認を絶えず求める動物、生きることの意味を追い求める動物、何にでも意味づけを求める動物だからです。そして、宗教は、その自己確認/生きることの意味の追求/意味づけ行為と深く関わるものだからです。
特攻隊の隊員の遺書はいうまでもなく、戦争状態にある国の指導者たちが「いかに自分たちの戦争が正当なものであるか」を国民に強調することにも、そうしたことが現われているでしょう。
このところ、戦争と宗教にかんする話題が続きました。次回は、世界の諸宗教がこれまでいかに、世界平和の実現に貢献してきたかを紹介します。
宗教には戦争や武力闘争などを推し進める働きがたしかにありますが、平和実現への貢献も積極的におこなってきました。それを具体的に紹介したいと思います。
次回のアップは、10月1日です。
星川啓慈(比較文化専攻長)
【参考文献】
(1)田丸徳善ほか『神々の和解――21世紀の宗教間対話』春秋社、2000年。
(2)星川啓慈『対話する宗教――戦争から平和へ』大正大学出版会、2006年。
(3)ハンチントン(鈴木主悦訳)『文明の衝突』集英社、1998年。
(4)ユルゲンスマイヤー(古賀林幸・櫻井元雄訳)『グローバル時代の宗教とテロリズム――いま、なぜ神の名で人の命が奪われるのか』明石書店、2003年。
(5)ユルゲンスマイヤー(阿部美哉訳)『ナショナリズムの世俗性と宗教性』玉川大学出版部、1995年。