学部・大学院FACULTY TAISHO
国際文化コース
【人文学科国際文化コース】大学院に進学し、修士の学位を達成した先輩の研究の紹介
学部の4年間のさきに、もっと研究を深めたいと思うなら、大学院に進学するという選択があります。白杉大樹さんは社会における衛生概念の発生と展開に関心をいだき、人文学科から文学研究科へと進学しました。国際的な環境が急激に広がっていった江戸末期から明治初期にかけて、欧米の影響がどのように日本の庶民の衛生概念を変えていったのか、あるいは変えなかったのか、コレラの流行という具体的な出来事に注目し、比較の手法を使って論じました。
白杉さんがご自身が研究をまとめてくださいましたので、ご紹介いたします。
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幕末から明治にかけてのコレラに関する施策的変容と民衆意識の変遷
白杉大樹
要旨
この修士論文は、2023年12月13日に提出されたものであり、その具体的な要約は以下の様なものである。
病気は恐ろしいものだが民衆は生活の知恵や俗信に基づいて対処している。例えば、わたしたちは病気になれば病院に行くけれども一方で病気平癒の祈願をし、加持祈祷をして、民間療法もつかうことがある。先端医療を疑うこともある。そこで未知の病気に遭遇しても、どうして人々の生活習慣は大きく変わることがないのか。そこで、具体例として安政5年と明治10年に日本で蔓延したコレラを取り上げ、官民の対応や人々の疾病観を明らかにする。コレラを選択した理由としては、コレラは世界各地で流行した病気であり、本邦においても同様に流行し、多数の犠牲者を出し、記録も多い。また、その感染力致死率の高さもそれまでの経験にないものであった。また、同一の土地すなわち日本でありながら、状況が大きく変化していることも理由である。
典拠資料は安政5年の良質な資料としては仮名垣魯文の『安政筒労痢流行記』や『橘黄年譜』などが該当。明治10年の資料は内務省衛生局が編纂した『明治十年虎列刺病流行記事』および『虎列刺病予防法心得』、太政官の『太政類典』など当時の法令を確認した。民衆に関しては読売新聞のうち明治10年に発行された記事や、先行研究から得た。なぜ読売新聞かというと、読売新聞は、数ある新聞の中でも女性や児童にも分かりやすい内容であり、またこれらの人々を啓蒙することを創刊目的としており、民衆目線の市井のニュースを取り上げる事が多かったので、これを選択した。
論文内容を簡潔にいえば、第一章から第三章までは資料から得られる当時の状況の考察であった。第一章、第二章、第三章、第四章のいずれにおいても、各節、各項にわけて論じた。第三章および第四章ではどのように民衆は対応し、また反応したのか、その背景としてどのようなコレラ観が存在するのか、そしてそれぞれの時代における官民の対応の差異および共通点はなんであるかという点について考察した。
その結果わかったこととしては、明治期には民衆の疾病観にも変化がみられていて、安政5年と違い、明確に感染症の一種と位置付ける立場(知識人)と、従来通りの噂を典拠として新しい医学や知識に反対し、疾病を怪奇現象様の存在とみなし呪術的行為で以て対応しようとする人々とに、分かれつつあった可能性、加えてその過程は緩やかであった可能性があるということである。
共通点と相違点としては、前者は外来病であること、基本情報は得たがその根本原因が不明であること、呪術的行為によって治療をもくろむ人々がいたので社会が混乱したことである。後者は安政期には近代的な意味合いでの「衛生」がなく、治療法も漢方中心。また、コレラは妖怪変化の如く扱われた。明治期には検疫の実施、衛生行政および法整備、巡査を実働とする防疫実施などの衛生施策が行われた。「病毒」と呼称してある種の伝染毒を想定する対処となった。明治期には消毒法中心であり治療は民間或いは避病院の管轄となる。新聞でも、読者欄における投書人の一部は呪術をもってコレラに対処する風潮に苦言を呈していた。消毒法についても、石炭酸を用いるようになった。隔離に関しても、完全に公衆衛生学上の隔離になった。
しかし資料的制約でわからなかったことも多々ある。明治10年の内務省所蔵の資料中では亜硫酸ガスなどを消毒に用いていたが、毒性による傷病者はなかったか、その記述がないならばなぜか、内務省衛生局の報告による疾病観の変化はなかったか、当時一般の消毒法に関して有害性を主張した者はいなかったかどうか。医学の発達に伴う日本独自の展開がなかったかどうか、明治17年にコレラ菌がロベルト・コッホによって発見されるが、それ以前とそれ以降で疾病観の変化が官民ともにあったかどうか、もし民衆にあれば、それはどのような転換をもって迎えられたのかなどが考えられる。
このゆえに、今後の課題として明治17年における官民の対応事例はどうであったかという点を追加して論じる必要があると考える。先に述べたように、明治17年にはコッホによってコレラ菌が発見されたが、コレラ菌発見以前と以後とのコレラ観はどのように変化したのか、民衆レベルでのコレラ観に変化があったのかといったことを調べる必要があるだろう。明治10年期における種々の消毒法は本当に有害ではなかったのか、もし有害であったならば、それによって被災したという資料はあるのか。また衛生に関して、知識人のあいだで見解が一致していたのかという点も見逃せない。
今後の課題として、呪術と(近代西洋医学的な)科学ではなく、漢方と西洋医学、ならびに呪術的対応とそこに見られる疾病観を論じねばならないだろう。というのは、現状の研究途上において資料をみると、安政5年、明治10年双方とも漢方薬を用いる一方で呪術的な対応もしている。また後者にはこれに近代西洋医学的消毒法などが加わっている。当初はこれを科学と呪術との対比であろうと考えていたが、そうではない可能性が、論文を見返すうちに見いだされたからである。
よって、これを論じることで本論文をよりよく進展させられるだろうし、さらにまた、上記を明らかにすれば、官民の疾病観の背景についてもさらに詳細にすることができる。このことからも、目次と構成とを見直したうえで研究に励む必要があると考える。
●●●新型コロナウィルス感染拡大のときにも、私たちは「呪術的」な行動を経験しました。疫病退散のアマビエはその代表的な事例でしょうか。私たちは案外、江戸時代から連綿とつながる慣習や意識のなかにあるのかもしれません。
いまの時代だからこそ、重要な研究テーマであると思います。
探究を続け、丹念に資料を読み解き、実証的に論考を深め、修士の学位を達成された白杉さんに、心からお祝いを申し上げます。
これからもぜひがんばってください。
人文学科国際文化コース