学部・大学院FACULTY TAISHO
国際文化コース
【人文学科国際文化コース】モーツアルトの『レクイエム』を聴くという異文化体験/異文化理解 ――「言語=文化的準拠枠」をのり越えようとするささやかな考察(承前)――
モーツアルトの『レクイエム』を聴くという異文化体験/異文化理解
――「言語=文化的準拠枠」をのり越えようとするささやかな考察(承前)――
前回のブログをお読みになった方は、こちらもお楽しみください!
また、前回のブログをお読みでない方は、今回のブログとあわせてそちらもぜひご覧ください。
▷前回のブログ:異文化を体験する/理解するとはどういうことか?(2024年9月24日アップ)
はじめに
私は、国際文化コースの教員がリレー方式で書いている「異文化体験」の前回のブログ(2024年9月24日アップ)で、「今回は私の最後のブログとなります」と書きました[1]。それに間違いはないのですが、今回はそこで議論した「C」タイプの異文化体験/異文化理解の具体的事例を、「補遺」として、私自身の経験から執筆します。
そのブログで、「日本文化」「ドイツ文化」「食文化」「音楽文化」という4つの熟語を想定すると、最初の2つは歴史を含んだ「国別(地域別)の文化」で、後の2つは「ジャンル別の文化」ということになる、と書きました。今回は、そのうちの「音楽文化」を例に取り上げます。具体的にいうと、W・A・モーツアルト(1756-1791)の絶筆となった『レクイエム』(「死者のためのミサ曲」)を取り上げます。「レクイエム」(Requiem)というのはラテン語で「安らぎ」「安息」といった意味です。
絶筆は絶筆ですが、実際にはモーツアルトが一人で全曲を書いたわけではなく、(一般論として)最初の一部を書いただけで、彼は亡くなりました。その後、弟子(たち)が曲を完成したのです。ですから、この曲は厳密には「モーツアルト作曲」とはいえません。それゆえ、この曲をめぐっては喧々諤々の議論がありますし、この曲にはいろいろな補作版や新版があります[2]。
しかし、モーツァルトの『レクイエム』は、G・ヴェルディ(1813-1901)、G・フォーレ(1845-1924)のレクイエムと並んで、「三大レクイエム」ともいわれ、名曲中の名曲です。私の主観的感想を一言でいえば、これはモーツアルトの作品の中でも非常に「暗い」作品だといえるでしょう(最後の第14曲を聴くとそうでもないのですが…)。のちに引用する高島氏も、モーツアルトは「心の闇や恐怖を音で表現するなど新たな境地を開き…」と述べているとおりです。
しかしながら、余談になりますが、モーツアルトは8歳のときに交響曲第1番を作曲しました。その第2楽章はハ短調で書かれていますが、指揮者のK・ベーム(1894-1981)は「そこにすでに『レクイエム』のように黙示録的な深い悲しみがある」と語っていることも紹介しておきます。これについて、オペラ歌手の車田和寿氏は「わずか8歳にして、モーツアルトは人類が抱える深い悲しみを理解していた」とコメントしています[3]。
病床のモーツアルト(中央左)[4]
弟子のジュスマイヤー(右)に「曲をどう書くか」を指示しているところでしょうか…。
1.最初の『レクイエム』体験
もう半世紀も前の高校生のころに、ラジオから流れてくる西洋クラッシク音楽を毎日のように聴いていました。そして、気に入った曲をラジオについているテープレコーダーで録音して、また改めて聴きなおすという日々を送っていました。モーツアルトの『レクイエム』を最初に聴いたのは、正確な記憶はありませんが、その後大学に入って間もなくだったと思います。いずれにせよ、当時は「歌詞」の意味もわからずに「曲」「音」だけ聴いていました。とはいえ、現在でも、歌手の独唱や合唱のラテン語は聴き取れません(苦笑)。
2. モーツアルトの『レクイエム』とはどういう曲なのか?
この曲を知らない読者も多いと思うので、高島豊氏によるモーツァルト『レクイエム』の「曲目解説」の一部を引用します。
モーツアルトのデスマスク[6] 1791年12月5日没、享年35歳
3.「歌詞/歌詞の意味」を知ることによって、『レクイエム』から遠ざかるという感覚
最初のうちは、『レクイエム』の(聴き取れないラテン語の歌詞もふくめて)「音」のみを聴いていたわけですが、そのうちに日本語に訳された「歌詞」(歌詞の意味)も知るようになりました。とくに、音楽を聴きながら、それにあわせて歌詞も見ることができるYouTube の動画[7]は、音楽と歌詞を一体のものとして聴くことができ、臨場感を感じることができます。註のURL から、モーツアルトと同郷(ザルツブルク)の指揮者=H・カラヤン(1908-1989)の演奏にのせてラテン語の歌詞の意味を理解できるので、是非トライしてみてください!
その歌詞ですが、14曲のうち、3曲を紹介します[8]。なお、註のURLをクリックすれば、この3曲も聴けるようにしています。それぞれ、4分31秒、1分48秒、5分36秒です(歌詞は、内容は同じでも、引用する以下の歌詞と「訳」は異なります)。
第1曲[9] 永遠の安らぎをお与えください
Requiem aeternam dona eis Domine:
主よ、世を去りしものたちに永遠の安らぎをお与えください
et lux perpetua luceat eis.
そして、彼らに絶えざる光が降りそそぎますように
Te decet hymnus Deus in Sion,
神よ、あなたは、〔シオンにおいて〕こころ清き者に対して賛美されます
et tibi reddetur votum in Jerusalem:
そして、エルサレムにおいて、あなたへの誓いが捧(ささ)げられるでしょう
Exaudi orationem meam,
どうか私の祈りをお聞き届けください
ad te omnis caro veniet.
〔肉〕体を持つ者のすべてが、主のもとへと帰ることが出来ますように…
第3曲[10] 怒りの日――激しく曲が展開する部分の歌詞
Dies irae, dies illa,
その日は怒りの日
solvet saeclum in favilla:
この世は焼かれて灰となる
teste David cum Sibylla.
ダビデとシビラの告げしごとくに
Quantus tremor est futurus,
人々の恐れとおののきはどれほどのものでしょう
quando judex est venturus,
やがて、裁きの主(ぬし)が現れて
cuncta stricte discussurus!
すべてを過酷に裁かれる!
第14曲[11] 主よ永遠の光を彼らの上に照らし給え――最後におかれた曲の歌詞
Lux aeterna luceat eis, Domine:
主よ、永遠の光が彼らを照らし降りそそぎますように…
cum sanctis tuis in aeternum,
永遠に、あなたの聖人たちとともに…
quia pius es.
なぜなら、あなたは、いつくしみ深き方なのですから…
Requiem aeternam dona eis Domine:
主よ、彼らに永遠の安らぎを与えたまえ
et lux perpetua luceat eis.
そして、絶えざる光が彼らを照らし降りそそぎますように…
Cum sanctis tuis in aeternum,
永遠に、あなたの聖人たちとともに…
quia pius es.
なぜなら、あなたは、いつくしみ深き方なのですから…
H・カラヤン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
モーツアルト『レクイエム』のCDのジャケット
モーツアルトの『レクイエム』の「音」だけを聴いていても、「異文化体験」になります。西洋には西洋の「音楽の作り方」(曲の構成の仕方・和音の作り方・メロディーの展開のさせ方など)があります。もちろん、大作曲家たちは音楽上の種々の「革新」をするわけですが、それでも西洋クラッシク音楽の「伝統」というものはあるといえるでしょう。たとえば、日本の「雅楽」――欧米の音楽で満ち溢れる国に住んでいる現代の日本人にとって、雅楽はもはや異文化かもしれませんね――などの曲の作り方や楽器編成とはまったく異なるわけですから、あまり西洋音楽に耳をかたむけない日本人にとっては、『レクイエム』の曲/音を聴くだけで「異文化体験」になるわけです。
とはいえ、私たち日本人は、学校の音楽教育のみならず、テレビのコマーシャルに始まって、日々西洋のクラッシク音楽を耳にしています。また、小さいころからピアノやバイオリンなどを習っている人には、「音楽」というと「日本の伝統的音楽」ではなく、「西洋クラッシク音楽」になるのかもしれません。このことは、充分に認識しているのですが、今回のブログとはあまり関係がないので、話を進めます。
『レクイエム』の歌詞を知ったうえでこの曲を聴くようになると、同じ曲の聞こえ方が違ってきました。「〔肉〕体を持つ者のすべてが、主のもとへと帰ることが出来ますように…」という一神教的な歌詞や、「その日は怒りの日、この世は焼かれて灰となる」「やがて、裁きの主(ぬし)が現れて、すべてを過酷に裁かれる!」などといった激しい歌詞は、私には無縁です。私にはそうした歌詞を「実感」として感じ取ることはできません。なぜなら、ユダヤ=キリスト教の伝統がほとんどない日本文化の中に生まれて、そこで育ってきたからです。
大学4年生のとき、1か月ほどヨーロッパにいく機会を得ましたが、いたるところに存在している教会の数には驚きました。そして、磔刑に処されたイエスの像があり、ステンドクラスに囲まれる教会で、聖職者の説教を聴いたり、聖歌隊の歌を聴いたり、ミサに参加したりするような生活をおくっていると、「モーツアルトの『レクイエム』も自然に抵抗なく受け入れられるようになるかもしれないなぁ…」と感じました。文化というのはそういうもの、つまり、ある文化的環境のなかで生まれ育つことによって、その文化を自分の「人格」のなかにおさめていくものだと思うからです。
(写真は「フリー写真:誰もいない教会内の風景」から転載)
くり返しになりますが、率直にいうと、『レクイエム』の歌詞の意味を理解していなかった時のほうが「身近な感じ」がしました。歌詞を知ると、逆説的ですが、「やはり〈文化〉がちがうんだなぁ…」と痛感したのです。たしかに、歌詞を知ることによって『レクイエム』の理解が深くなったといえるかもしれません。しかしながら、その一方で、『レクイエム』が自分から遠ざかっていった、という実感も持ちました。それは、日本文化にはない異質なものを、言語的(概念的)に、イメージ的に、感覚的に、感じるようになったからでしょう。もちろん、曲を聴くことに没頭しているときには、こんなことは考えません(笑)。
4.『レクイエム』を包み込むキリスト教文化をさらに知ると…
話はこれで終わるわけではありません。その後、大学院に進学して宗教学・宗教哲学を専攻するようになり、キリスト教について(わずかにせよ)より豊かな知識(ユダヤ=キリスト教の教義・思想・歴史および関連領域についての知識)をもつようになりました。30歳のころ、再びヨーロッパに行く機会にも恵まれ、滞在期間も比較的余裕があり、キリスト教的な伝統や環境を少しは肌で感じることができました。つまり、モーツアルトの『レクイエム』を生みだした包括的なキリスト教文化について、また少し知識が深まったのです。
それでも、依然として「〈文化〉がちがうんだなぁ…」という実感に変わりはありませんでした。しかし、キリスト教信者ではないけれども、そういう文化(言語=文化的準拠枠)の中に入ったつもりでこの曲を聴くと、なんとなく「前よりわかる」気がするようになりました。もちろん、これは、第三者的には、錯覚/妄想の可能性であることは否定できません。その一方で、錯覚/妄想でない可能性もあるのです。
5.文化の「共感的理解」
先の解説で、高島氏は「死者の安息を祈る気持ちはクリスチャンに限らず共有できることに加え、作品自体の素晴らしさが人々を魅了して止まないのです」と述べていました。私の両親はすでに亡くなっていますが、その当時「死者の安息を祈る気持ち」はありましたし、現在でもあります。これはまさしく「クリスチャンに限らず共有できる」ものでしょう。「主」の存在を信じなくとも、亡くなった人々に「永遠の安らぎが与え」られることを願うことについては、おそらく、世界中の人々が肯定的にとらえるだろうと思います。高島氏の言葉は、「文化の相対性と普遍性(共通性)」を議論をする場合に、かなり重要な論点だと思います[12]。
ここで、前回と今回のブログの趣旨から、1つの提案をしたいと思います。すなわち、「非キリスト教徒がモーツアルトの『レクイエム』に共感できるか否か」という問題があるとすれば、「共感を覚える」こと=「死者の安息を祈る気持ちの共有」(高島氏)は可能という立場を採用することです。いつまでも文化間の疎隔にこだわるのではなく、それをのり越える方向性を選択することです(前回のブログのタイプ「C」を思い出してください)。たとえモーツアルトの『レクイエム』の最初からずっと歌詞に違和感を感じていても、最後の第14曲――この部分は、モーツアルトの指示で、彼自身が作った曲の最初の部分が使用されています――を聴くと、一人の人間として、皆さんも「主よ、彼らに永遠の安らぎを与えたまえ」という歌詞に(ある種の)「共感」を感じるでしょう!?
多くの人たちが「異文化理解には共感が必要である」と論じています[13]。この共感を携えながら、キリスト教の言語=文化的準拠枠のなかにはいっていくのです。そうすると、キリスト教文化という言語=文化的準拠枠を少しはのり越えやすくなるのではないでしょうか。
ところで、幼少のころ、私は「嘘をつくと、閻魔大王に舌を引き抜かれる」と脅されたり、お寺では、地獄の様子を描いた絵(地獄絵図)を見たりもしました。こうしたことも上の「共感」を生みだす遠因になっているかもしれません。
現代では、可愛くて恐ろしさもないイラストも多く、いまや大人気の「閻魔大王[14]」
中央にあるのは「浄玻璃鏡」
閻魔大王の話をつづけると、世界の諸宗教にみられる「因果応報」という考え方が日本にもあり(平安時代以降?)、インド由来の閻魔大王は、冥界で死者の生前の行いを「鏡」(浄玻璃鏡)を用いて判断し、私たちが地獄にいくかいかないかを決めます。こういう話を聞かされていると、『レクイエム』の歌詞全体についても共感できる部分が増える気もします。つまり、たとえば第3曲の「やがて、裁きの主(ぬし)が現れて、すべてを過酷に裁かれる!」という歌詞にも、類比的に共感できるということです。
6. 前回のブログとの関連づけ
このブログの冒頭で、「今回はそこで議論した〈C〉タイプの異文化体験/異文化理解の具体的事例を…私自身の経験から執筆します」と書きました。最初から上で書いたようなことを考えていたわけではありません。しかしながら、このブログの原稿を執筆するにあたって、モーツアルトの『レクイエム』を聴くという、自分の異文化体験およびそこから派生する異文化理解は、現在からふりかえってみると、「こういうことだったのではないか」と思うしだいです。
その一方で、聴けば聴くほど、「モーツアルトの『レクイエム』の世界観/ユダヤ=キリスト教の世界観には入っていけないなぁ…」という感じは拭い去れません。たとえば、キリスト教の根幹には「イエス・キリストは人間であると同時に神である」(「三位一体論」の一部[15])という考え方がありますが、これを受け入れるのにはやはり抵抗があります。ちなみに、ユダヤ教やイスラム教はキリスト教の兄弟宗教ではありますが、ユダヤ教徒やイスラム教徒は「厳格な一神教」を奉じており、この考え方は受け入れないでしょう。なぜなら、「もしイエスも神なら、神は唯一神ではなくなり、多神教的になってしまう」からです。
「モーツアルトの『レクイエム』の世界観/ユダヤ=キリスト教の世界観には入っていけないなぁ…」という私の感じは、そのままでいい/無理に克服しようとする必要はないのかもしれません。私の場合、違和感と共感の双方を持ちながら異文化に接している/モーツァルトの『レクイエム』を聴いているというのが、正直なところです。
異文化体験/異文化理解について率直にいうと、共感ばかりというのもいかがなものかと思いますし、違和感ばかりというのもありえないのではないでしょうか。
先回のブログで、以下のようなことで人間は成長すると書きました。
⑴外国語や異文化について知識が増え、それらについての理解が増す(←アリストテレスいわく「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」)、⑵異文化の言語=文化的準拠枠の内部に少しでも入りこむことができれば、その準拠枠から自分の文化を見つめ直すことができる(←ゲーテいわく「外国語を知らない人は、自国語についても無知である」)、⑶さらにそれが進めば、自文化をいっそう深く理解できる(←星川いわく「文化比較の最大の効用は、自文化についての理解を深めることである」)。
今回のブログとこれらを関連づければ、「共感と違和感の双方を持ちながら異文化に接する」ことによって、人間は成長するというわけです。
おわりに
私は大学に入学して、今年(2024年)でちょうど半世紀になります。「比較文化学類」という(一種の)学科で学び始めました。半世紀にわたって私が感じることは、次のようなことです――「違和感をもちつつも、共感するところは共感するという態度で異文化と向き合うことこそが、重要なことではないか」。
しかし、先にも書いたように、モーツアルトの『レクイエム』に没入しているときは、こんなことはみじんも考えません。やはり、日本文化の言語=文化的準拠枠とか西洋キリスト教の言語=文化的準拠枠などということは念頭にはなく(どうでもよく)、ただただ音楽の世界に没入しているのみです。
前回と今回のブログで「異文化体験/異文化理解」をめぐって考察を展開してきました。しかしながら、一口に「異文化体験/異文化理解」とはいっても、「それがいったいどういうことであるのか」という問いに答えを出すことは難しいです。2回のブログを執筆していて、そのことを改めて痛感しました。
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[1]「異文化を体験する/理解するとはどういうことか? ――〈言語=文化的疎隔〉があるからこそ、異文化体験/異文化理解は面白い!」
https://www.tais.ac.jp/faculty/department/cultural_studies/blog/20240924/88258/
[2] ジュスマイヤー版、バイヤー版、モーンダー版、ランドン版など。また、ショパンの葬儀や、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの追悼ミサでも、演奏が行われています。
Wikiwand「レクイエム (モーツァルト)」https://www.wikiwand.com/ja/%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A0_(%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88)
(2024年8月閲覧)
[3] 車田和寿氏の動画「【演奏家紹介】20世紀最高の指揮者の一人!真の巨匠カール・ベームの魅力を紹介!ウィーン国立歌劇場総監督辞任はカラヤンに仕組まれた・・?」https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?q=%E8%BB%8A%E7%94%B0%E5%92%8C%E5%AF%BF%20%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%A0&mid=BF0B0783FBEC6F8EE5C4BF0B0783FBEC6F8EE5C4&ajaxhist=0
(2024年8月閲覧)
[4] 写真は、 G. Predota (2021), “On This Day 5 December: Wolfgang Amadeus Mozart Died” から転載させていただきました。
https://interlude.hk/on-this-day-5-december-wolfgang-amadeus-mozart-died/
(2024年8月閲覧)
[5] 高島豊「モーツァルト〈レクイエム〉曲目解説」https://blog.goo.ne.jp/pocknsan/e/ad1c5daaeaa580612468d1174967cd3a
(2024年8月閲覧)
また、モーツァルトの「レクイエム」の「音楽的特徴」については、車田氏の動画「【名曲解説】未完の傑作レクイエム!モーツァルト最後の一年と謎の依頼人!モーツァルト最高傑作の一つ、レクイエムの魅力を解説!」(15分程度)が参考になります。https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?q=%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%20%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A0%20%E6%AD%8C%E8%A9%9E%20%E5%AF%BE%E8%A8%B3&mid=EA9F806197802810A672EA9F806197802810A672&ajaxhist=0
(2024年8月閲覧)
西洋音楽における「レクイエム」について知りたい人には、音楽学者の佐々木勉氏による「レクイエムの系譜」を紹介しておきます。
https://yomikyo.or.jp/pdf/book/orchestra-201406-02.pdf
(2024年8月閲覧)
[6] 写真は、前掲のPredota氏の論文からから転載させていただきました。
[7] 演奏は、カラヤン指揮/ベルリン・フィル(1961)です。ただし、ブログで引用した歌詞とは(内容的には同じですが)訳は異なります。
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?q=%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a1%e3%83%ab%e3%83%88+%e3%83%ac%e3%82%af%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%83%a0+%e6%ad%8c%e8%a9%9e+%e5%af%be%e8%a8%b3&mid=4CA550D712D4C9D009704CA550D712D4C9D00970&FORM=VIRE
(2024年8月閲覧)
[8] 以下の邦訳は、次の解説から利用させていただきました。いくつかの邦訳を比較しましたが、若い読者には読みやすいと思います。訳文は訳者によりかなり異なります。
アルパカ新一「モーツァルト:レクイエム【3選の名盤と歌詞を解説|感想】背景に渦巻く思惑、ドラマ、ミステリー!!」
https://www.alpacablog.jp/entry/mozart-requiem
(2024年8月閲覧)
ところで、フォーレのレクイエムの最初はこうです――「Requiem aeternam dona eis, Domine, et lux perpetua luceat eis.」。ヴェルディのレクイエムの最初はこうです――「Requiem æternam dōnā eīs, Domine, et lūx perpetua lūceat eīs.」。お気づきのように、ラテン語の母音が長音であることを示す「音引き」があったりなかったりしますが、2つともモーツアルトのものと同じです! レクイエムの場合、作曲家が違っても元の「典礼文」が共通なので、歌詞も同じものになります。しかし、作曲家によって書かれる曲はまったく違います。
[9] クラシック名曲チャンネル「【入祭唱】モーツァルト レクイエム 二短調 イントロイトゥス Introitus 【歌詞訳付】」
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?&q=%e3%83%a2%e3%83%bc%e3%83%84%e3%82%a2%e3%83%ab%e3%83%88%e3%80%80%e3%83%ac%e3%82%af%e3%82%a4%e3%82%a8%e3%83%a0&&mid=242E72CB9E0D586CE8FE242E72CB9E0D586CE8FE&&FORM=VRDGAR
(2024年8月閲覧)
[10] クラシック名曲チャンネル「【続唱】モーツァルト レクイエム 二短調 ディエスイレ Dies irae 【歌詞訳付】」
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?q=%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%80%80%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A0&mid=A33886E3F479AE95A809A33886E3F479AE95A809&ajaxhist=0
(2024年8月閲覧)
[11] クラシック名曲チャンネル「【聖体拝領唱】モーツァルト レクイエム 二短調 コンムニオ Communio【歌詞訳付】」
https://www.youtube.com/watch?v=gCjcD2Vdb9c
(2024年8月閲覧)
[12] しかしながら、文化相対主義を徹底させると、「その〈安らぎの与えられ方〉も文化によって異なるから、表面上似ていても、その根源は異なる」などということになりかねません。
[13] 次の研究は、小学校における異文化理解の授業の研究ですが、こういう意欲的で実践的な試みも紹介しておきます。
谷藤明子「異文化を持つ人々に対する共感的理解を深める国際理解教育の進め方に関する研究――直接交流とふり返りを関連付けた段階的指導をとおして」(平成16年)
https://www1.iwate-ed.jp/04kenkyu/02ryouiki/204kokusai/h16_14c15.pdf
(2024年8月閲覧)
ところで、異文化理解に関連して、「排他性」について知っておくことも重要です。今回のブログの趣旨とはやや離れますが、興味のある読者は次のものを参照してください。
星川啓慈「他文化に対する〈排他的態度〉をめぐる論理学的考察――その不可避性と克服について」『こころと文化』vol.18, no.2, 2019.
https://www.tais.ac.jp/faculty/graduate_school/major_incomparative_culture/blog/20191115/62564/
(ブログにある『こころと文化』の表紙をクリックすると、論文が読めます!)
[14] 写真は「地獄の主〈閻魔大王〉」の役割と意味とは? 現世の別名は〈地蔵菩薩〉」から転載させていただきました。
https://omajinai-navi.jp/emmadaio/
(2024年8月閲覧)
[15] 「三位一体」という言葉はよく耳にしますが、じつは新約聖書にはありませんし、人智では理解できないとされています。皆さんも「1にして3、3にして1」というのはよく理解できないでしょう。この教えは、325年に開かれた「第1ニカイア公会議」以降に固まりましたが、「神は、実体において唯一の神でありつつ、父と子と聖霊という3つの位格において存在する」とか「父(父なる神)と子(神の子=イエス・キリスト)と霊(聖霊)の3者が〈一体(唯一の神)〉である」と表現されます。
【後記】
今回ブログの原稿を脱稿したあとで、「註3」などで紹介している車田和寿氏の動画を2つ拝見しました。私が長年考えて来たことについて、氏のヨーロッパでの体験をもとにした明快で説得的な意見をうかがい、大変勉強になりました。
今回のブログとの関連では、「異文化理解にはやはり〈共感〉が必要であること」「異文化をさがして理解するのは大変難しいこと」などが語られています。「さがして」というのは、たとえばモーツアルトの時代の「文化」はヨーロッパでも失われつつあるからです。これは日本の文化についてもいえるでしょう(今回のブログで言及した「雅楽」のことも思い出してください)。どちらも15分くらいの動画なので、閲覧をおすすめします。
⑴「【音楽談話50】日本人演奏家の前に立ちはだかる文化の壁!文化を知らないと世界に通用しない?文化の大切さとは?」
https://www.bing.com/videos/riverview/relatedvideo?q=%e8%bb%8a%e7%94%b0%e5%92%8c%e5%af%bf%e3%80%80%e6%96%87%e5%8c%96%e3%81%ae%e5%a3%81&mid=2A15EF1D1F980F8FD9CB2A15EF1D1F980F8FD9CB&FORM=VIRE
(2024年8月閲覧)
⑵「【音楽談話51】音楽に信仰は必要?日本人には本当の意味で音楽を理解するのはできないのか・・?音楽の力とは・・?」
https://www.youtube.com/watch?v=uVbM8lKr6i4
(2024年8月閲覧)
※星川担当分の「異文化体験記」「海外体験記」のバックナンバー(番外編を含む)は以下のとおりです。
⑴「カンザス大学留学体験記」(2022年5月アップ)
https://www.tais.ac.jp/faculty/department/cultural_studies/blog/20220518/76445/
⑵「バックパッカーとしてのヨーロッパ一人旅」(2022年6月アップ)
https://www.tais.ac.jp/faculty/department/cultural_studies/blog/20220609/76648/
⑶「ウィトゲンシュタインも利用した〈フロム鉄道〉の旅」(2022年7月アップ)https://www.tais.ac.jp/faculty/department/cultural_studies/blog/20220714/77026/
⑷番外編「ウィトゲンシュタインのような自転車――シンプルなるものの機能美」(2022年8月アップ)https://www.tais.ac.jp/faculty/department/cultural_studies/blog/20220804/77685/
⑸「英国スターリング大学での研究生活」(2023年1月アップ)https://www.tais.ac.jp/faculty/department/cultural_studies/blog/20230101/79862/
⑹「哲学研究者への道 ――人文系学問の研究者をめざす人たちへ」(愛媛・今治西高での講演)(2023年8月アップ)https://www.tais.ac.jp/faculty/department/cultural_studies/blog/20230901/83298/
https://www.tais.ac.jp/faculty/graduate_school/major_in_religious_studies/blog/20230901/83341/
⑺「〈レット・イット・ビー〉の歌詞とウィトゲンシュタインの『日記』――〈レット・イット・ビー〉の歌詞を宗教的観点から深堀りする」(2024年3月アップ)
https://www.tais.ac.jp/faculty/department/cultural_studies/blog/20240227/85386/
⑻「異文化を体験する/理解するとはどういうことか? ――〈言語=文化的疎隔〉があるからこそ、異文化体験/異文化理解は面白い!」(2024年9月アップ)
https://www.tais.ac.jp/faculty/department/cultural_studies/blog/20240924/88258/