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比較文化専攻

戦争と文化(9)――戦争における「攻撃」: クラウゼヴィッツの『戦争論』から(3)

はじめに

 前回は「防御」をテーマとしましたが、防御は「待ち受け」や「受動」に終始するのではなく、「攻勢的な反撃」に出ることが含まれていることをお話ししました。今回は、「攻撃」をテーマとしますが、攻撃も同様に、「防御と切れ目なく混じり合っている」のです。 そして、防御が反撃で終わるように、「いかなる攻撃も、最後には防御に移行することによって終わる」のです。

 前々回で、クラウゼヴィッツの「戦争の要素から部分へ、さらに全体へと考察が進み、戦争の本質を知るために、部分と全体の双方に目配りをする」という思惟方法に言及しましたが、「防御は攻撃をもって終わり、攻撃は防御をもって終わる」という見解にも、それは反映されているでしょう。

 

攻撃のなかの防御

何度もいうように、防御には反撃が不可欠の要素としてあるのですが、クラウゼヴィッツによれば、攻撃や突撃は「それ自体が完結した概念であり、攻撃には防御の要素が必要ではない」のです。ここで注意していただきたいのは、「概念」という表現を使用しながら、「それ自体が完結している」ことを理由に、攻撃と防御を峻別しようとしていることです。ふつうに考えると、現実的には、攻撃と防御の双方が入り混じって区別できないことがあるのではないでしょうか。おそらく、クラウゼヴィッツは、そうした状況すらも明確に理論的に説明しようとしているのでしょう。

クラウゼヴィッツによれば、攻撃を制約している時間と空間によって、攻撃が防御と結びつくことがあります。その理由は、第1に、時間的なものです。つまり、「攻撃は、一連の経過を経て最後まで継続されるものではなく、休止する時間が必要であり、攻撃軍は、この休止の時間には無力となり、自ら防御の状態を取らざるを得ないから」です。その理由は、第2に、空間的なものです。つまり、「前進する攻撃軍が後方にし、自らの生存のために必要とする地域〔補給のための連絡線〕は、常に攻撃自体で掩護されるとは限らず、この地域を特別に防護する必要があるから」です。したがって、攻撃とりわけ戦略的な攻撃においては、「攻撃と防御の連続的な転換と結合が見られる」ことになります。

しかしながら、クラウゼヴィッツによると、攻撃における防御は称賛されるべきものではなく、あくまでも「攻撃中の防御は、攻撃にとって原罪であり、死んだ原則」であり、「攻撃における…防御の要素は、攻撃にとってこれを積極的に弱化させる原則とみなされざるを得ない」のです。

 

戦争04 Army.mil.jpgのサムネール画像
by Army.mil.jpg

戦闘力の減衰と攻撃の限界点

 攻撃力はいつまでも増強し続けたり、その状態を維持したりできるものではありません。いずれ、「戦闘による損耗と疾病」「補給基地との距離」「肉体的な困苦と疲労」「同盟国の離反」などにより、攻撃における戦闘力はしだいに減衰してきます。

 前回、七年戦争は各国間の講和条約で終結した、と述べましたが、攻撃側の優勢が日増しに低下するにもかかわらず、講和の日まで優勢が維持されれば、攻撃の目的は達成されることになります。攻撃側が防御に転移してなんとか持ちこたえて、講和を待つだけの戦力にまでに至る、これが通例のようですが、クラウゼヴィッツは次のように述べています。

  このような点〔講和の直前〕にまで至ると、反撃による逆転がおこる。このような反撃の激しさは、通常は攻撃力よりもずっと大きい。われわれは、このような点を攻撃の限界点と呼ぶ。

 クラウゼヴィッツによると、攻撃の目的は敵の国土の占領にあり、講和条約の締結によってそれが達成されます。そこで当然、「どこで攻撃を中止するか」という問題がもちあがります――おそらく、講和条約され締結されるなら、被害は最小限でおさえるべきなのでしょう。「戦力の方程式」にどれほど多くの変数が関係しているかに思いをめぐらすと、これは非常に難しい問題です。クラウゼヴィッツは「攻撃においてもっとも重要なことは、研ぎ澄まされた判断力をもって、限界点を見極めることである」との見解を披歴しています。

 

戦闘力を増大させる要因

 『戦争論』第7編第6章「敵の戦闘力の撃滅」には、「戦闘力を増大させる要因」が7つあげられています。それらの中から、簡単に2つを紹介しましょう。

まず、「敵軍が被った損害」があげられます。通常、これは自分の軍の損害よりも大きいものです。敗北後の敵の損害は、その直後がもっとも大きく、その後は、自分の軍と均衡に達するまで、日を追って回復することがあります。反対に、敵の損害が日毎に増大することもあります。いまさながら、戦闘で自分たちの側が優勢になると、士気が上がることは想像に難くありませんね。ちなみに、多くの書物で書かれていますが、死傷者が激増するのは、敵に背中を見せるとき、つまり、敗走するときだといわれています。

つぎに、「われわれが敵の領土に侵攻した時点から、新たな戦闘力となる〔敵の〕地域が失われる」ことがあります。戦略的に述べると、敵地に深く侵攻した場合、敵国の領土の4分の1から3分の1を占領して初めて意味があるのですが、そこに達する間、自分たちの軍の戦力は増大するのです。敵地に侵攻する場合、国境地帯からどんどん侵攻するにつれて士気が高まることも、容易に想像がつきますね。

しかしながら、戦闘力を増大させる要因のみならず、戦闘力を減少させる要因についても考えなければなりません。今回の話の重点はこちらにあります。

 

戦闘力を減少させる要因

戦闘力を減少させる要因については、同じ箇所で、5つあげられています。そのうちの2つを紹介しましょう。

まず第1に、「われわれが敵の領土に侵攻した時点から、戦域の性格が変化し、敵対的なものになる」ことです。侵攻した土地は、自分たちが占領している間は自分たちのものになりますが、それでも、軍全体の運営のいたるところで困難が生じ、必然的に軍隊の機能を低下させるのです。たとえば、進軍するためには、物資や武器や人員を補給する「後方連絡線」が必要です。単純にいうと、敵国に侵攻した時点から侵攻すればするほど、この連絡線が長くなり続けます。この連絡線を防護するには人員や物資や武器が必要ですが、連絡線が長くなればなるほど、これを防護することが難しくなるでしょう。また、無防備ないしは防護が手薄な連絡線にたいしては、敵の攻撃意欲が高まるでしょう。最悪の場合、軍が退却するさいに、後方を遮断されて孤立し、挟み撃ちになるかもしれません。

余談になりますが、太平洋戦争において「インパール作戦」(1944年3月‐7月)が強行されました。その立案段階で、小畑信良参謀長たちは「ずさんな補給体制」を問題にして反対しましたが、司令官の牟田口廉也中将は計画を実行してしまいました。その結果、日本軍の健闘にもかかわらず、「白骨街道」という言葉に象徴される結果となりました。もしも「補給」体制を整えることができていたなら、戦況は変わったかもしれません。

第2に、上記のこととも関係しますが、「われわれは、自らの補給源から遠ざかるのに対して、敵は、彼らの補給源に近づいていく」ことです。これは策源(前線の部隊に必要物資を供給する後方の地)からの距離に関することで、その距離が大きくなればなるほど、戦闘力は減少し、ますます大きな補給が必要となります。もちろん、侵攻した土地の物資を略奪することが考えられます。しかし、そうしたものがない場合もありますし、多くの場合、退却する軍隊はその土地を焼き払って敵に物資を与えません(焦土作戦)。ましてや、敵国内に住む人間を自分たちの味方にするのは至難の技でしょう。人員の場合には、自国から呼び寄せる以外に手段がありません。

 

ナポレオン.jpgのサムネール画像

 以上の2つを踏まえながら、1812年のナポレオンのロシア戦役をみましょう。この例はクラウゼヴィッツも何度か引いています。「焦土作戦」の解釈や兵士の数などには異説もあるのですが、一般的には、以下のように述べられています。ナポレオンは、フランスは同盟諸国から徴兵した45万-60万という大軍でロシアに侵入しましたが、補給・兵站を軽視したため、広大な国土を活用したロシア軍の焦土作戦によって苦しめられ、飢えと寒さで次々と脱落者を出しました。さらに、モスクワすらも焦土とされたため、ナポレオン軍は総退却となりました。くわえて、ロシアの厳しい気象条件も重なり、数十万のフランス兵の命が失われ、無事に本国まで帰還してこられた者は、わずか5000人程度であったといわれています。このナポレオンの失敗からも、後方連絡線や策源の重要性が理解できるでしょう。ナポレオンの軍隊がロシアに深く攻め込めば攻め込むほど、戦況は不利になったのです。激烈な戦闘を支える非戦闘的な事柄も、ひじょうに重要なのですね。

第3に、戦闘力を減少させる要因として、「敗北の瀬戸際で、敵が最後の力を振り絞るのに対して、勝利を目前にした側の努力に弛緩が生ずる」ことをあげておきましょう。戦闘における勝敗は、物質的なものだけで決まるわけではありません。戦う兵士の士気・精神力が多いに関係することは、いうまでもないでしょう。敵は恐怖や無気力から一度は敵意を喪失することがあっても、敗北を目前にして熱狂的な発作的行動にでることがあります。そうすると、敵はこぞって武器をとり、その抵抗はすさまじくなります。反対に、勝利を目前にした者が陥りがちな精神的弛緩もあります。勝利や成功を目前に、気が緩んでしまうことは、われわれの生活でもよく見られることですね。

 

攻撃の限界点

以上のようなことを見てくると、「攻撃の限界点」がいかに重要か、が理解できます。そして、この限界点をきちんと見極めるのがまた、至難の業であり、限られた司令官にしかできないことなのです。

クラウゼヴィッツは「歴史を見れば、戦局が急展開する最大の危険は、まさに攻撃を停止し、防御に転移する瞬間に出現することを認めざるをえない」と断言しています。さらに、攻撃を弱化させるものは防御であり、「攻撃は、その限界点を超えると、まったく利点のない防御に移行せざるをえない」とも述べています。

しかし、多数の戦例を見渡しながら、クラウゼヴィッツは「われわれは、一度ある偏った思考に陥った場合、それ自体充分な根拠のある理由があっても、いつでもこれを変えたり、思いとどまることができるわけではない」ともいいます。攻撃・進軍が一度決定されたら、視野が狭くなってしまい、戦況を見失う危険にさらされるわけです。これは想像に難くないですね。もちろん、攻撃・進軍が一度決定されたら、それを貫徹することは、指令官にとって大切なことです。

けれども、攻撃は最終的な「目的」ではありません。その先には、敵を打倒すること、敵の領土を占有すること、講和を結ぶことなどがあり、攻撃はこれらの「手段」に過ぎないのです。ですから、こうした目的の下位にある、手段としての攻撃を状況に対応させることが必要です。クラウゼヴィッツは、むやみに攻撃を続行することについて、次のように語っています。

 前進している間には、行動の流れの中で、均衡が失われる限界、すなわち攻撃の限界点を気付かないうちに越えてしまう。精神的な力は攻撃軍の方がもともと優れているが、まさに、精神的な力を頼りとする攻撃軍は、戦力を消耗し尽くしているにもかかわらず、重荷を背負って山道を行く馬のように、前進を継続する方が停止するよりも容易なのである。

 

ふたたび指揮官について

攻撃の限界点を見極めるには、きわめて多くの要素を「総合的に考察する」ことが求められます。それらの要素の中には目に見えるものもあるでしょうが、そうでないものや推測する以外にないものもあります。指揮官はそうしたもろもろのことを総合的に判断して、迅速に命令を下さなければなりません。クラウゼヴィッツは、攻撃の限界を見極める指揮官の資質について、次のように論じています。

 指揮官は、あたかも射手が的を射て正確に命中させるように、これら〔多くの直接・間接の要因〕すべてとその他多くの関連することを含めて、熟達した判断力をもって正しく推測しなければならない。しかしながら、われわれは、このような人間精神の活動が容易でないことを認めざるをえない。この判断には、さまざまに入り組んだ数千の選択肢がある。指揮官の判断を誤らせるものには、このような対象の多さ、複雑さばかりでなく、戦争に特有な危険と結果に対する責任がある。

前々回のブログで「軍事的天才」に言及しましたが、やはり、攻撃の限界点を見極める場合でも、指揮官の資質がきわめて重要なのです。いくらテクノロジーが進んでも、作戦・戦闘などをふくんだ戦争においては、指揮官の人間的判断が最終的なものでありつづけるでしょう。それゆえ、いつの時代になっても、最終的な決定を下す人間の判断が戦争の核心にあるのです。

 


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おわりに

最近の3回では、クラウゼヴィッツの『戦争論』を取り上げました。次回は『戦争論』の最初の回で紹介した、ジョン・キーガンの『戦争と人間の歴史』(War and Our World, 1998)を取り上げたいと思います。キーガンは、クラウゼヴィッツの政治哲学が「〔ヒトラーの〕全体主義国家の政治哲学の基礎になった」という理由で、『戦争論』を「これまでに考え出されたなかでも、最も邪悪な戦争の哲学を唱えはじめた」と酷評しています。

また、M・カルドーの『新戦争論――グローバル時代の組織的暴力』(New and Old Wars, 2001) を読むと、アメリカや西欧諸国が、現代になってもいかにクラウゼヴィッツの思考の枠組みでものを考えているかが分かります。カルドーの著書はいずれこのブログで取り上げる予定です。

アップは毎月1日ですから、次回は11月1日です。

 

 

星川啓慈(比較文化専攻教授)

 

 

【参考文献】

(1)C・クラウゼヴィッツ(日本クラウゼヴィッツ学会訳)『戦争論――レクラム版』芙蓉書房出版、2009年、第7編「攻撃」。

(2)M・カルドー(山本武彦・渡部正樹訳)『新戦争論――グローバル時代の組織的暴力』岩波書店、2003年。

(3)半藤一利監修『知識ゼロからの太平洋戦争入門』幻冬舎、2009年。

(4)半藤一利総合監修『太平洋戦争(8)――インパール作戦』ユーキャン、2012年。

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