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比較文化専攻

戦争と文化(10)――世界平和のために: J・キーガン『戦争と人間の歴史』から

 

はじめに

第7回目のブログで、クラウゼヴィッツを酷評しているジョン・キーガンの言葉を引用しました。今回は、そのキーガンの著書『戦争と人間の歴史――人間はなぜ戦争をするのか?』(War and Our World, 1998)を手がかりに、「戦争はなくなるのか?」という問題を考えてみましょう。

まずいえることは、これは答えの出ない問題の立て方だということです。かりに、近未来のある時点から200年間戦争がなかったとしても、その後に戦争がおきる可能性があり、時間の長さを考慮すれば、「戦争がなくなる」という結論は導き出せないからです。

ここでは「戦争がなくなるか否か」という問題に決着をつけようというのではありません。今回のタイトルはキーガンの著書の最終章(第5章)から取ってきたまでのことです。それはさておき、結論がでないまでも、この問題についていろいろと考えてみましょう。

 

戦争の原因

人間というものは、宇宙や言語や宗教や人類など、あらゆるものの「起源」について知りたがるようです。しかし、どれをとってもなかなか「起源」については分かりません。戦争の起源についても学者間で論争があります。

キーガンによると、戦争の起源を研究している人たちは、「何か人間本性のなかに埋め込まれている根拠を探索しようとする人々と、人間本性に作用した外的なあるいは偶然的な影響に根拠を求めようとする人々」とに大きく分かれるようです。私は個人的には後者のほうに重きをおきたいです。

「本性論者」と呼ばれる前者の人たちは、さらに2つのグループに細分されます。少数派は「人間は、他の多くの種の動物がそうであるように、本性的に暴力的である」と主張します。これに対して、多数派は「暴力を非本性的な逸脱した活動」と見なし、欠陥のある人間においてのみ、あるいは特殊な挑発や刺激に対する反応としてのみ見られる、とします。つまり、暴力は、引き金となる要因が緩和/除去されれば避けられると考えます。

脳科学(脳神経科学)の発展もあり、宗教では脳内に「神の場所」――たとえば啓示がもたらされる脳内の場所――を探そうという試みがあります。これとまったく同じように、「攻撃性の座」というものが脳内(大脳辺縁系)にあり、それがある刺激を受けたり、物理的な変化を被ったりすると、人間は攻撃的行動にでるということです。もしも、こうした「座」が脳内にあれば、「戦争は避けられない」という見方を後押しするでしょう。しかし、ラットでいろいろと実験がなされているようですが、攻撃性の脳神経的な起源は明らかになっていないようです。私もこうした見方には反対です。その理由は、脳の一部が攻撃性と一対一的に対応している可能性は低いと推測しうること、また、脳全体のネットワークという考えを採用すれば、「座」という局所に攻撃性の原因を求めることには無理があると思うからです。

 

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by Army.mil.jpg

遺伝学でもいろいろと研究があるようです。人間においてある染色体のパターンが攻撃的行動と結びついていることや、Y染色体を1つではなく2つ持っている男性(1000人に1人)は粗暴犯になる確率が高いことなどが、判明しているそうです。でも、戦争は集団的な行為なので、個人レベルの研究の結論を集団レベルの行動に直結させるのは、論理の飛躍があるでしょう。つまり、個体発生的なものについての知見を、そのまま系統発生的なものに直結させるというのは、必ずしも正当な思惟方法とはいえないでしょう。

 その他、フロイトの学説、動物行動学者K・ローレンツの学説なども取り上げられていますが、「人間は本性的に暴力的である」という見解を指示する決定打はないようです。「人間本性のなかに埋め込まれている、暴力・戦争の根拠を探索しよう」という試みについては、これくらいにしておきましょう。

戦争の根拠を「人間本性に作用した外的なあるいは偶然的な影響に求めよう」という試みの場合、そうした影響には種々のものをあげることができるでしょう。ケースごとにそれぞれ異なった政治的・経済的・人種的・心理的・歴史的原因などがあり、これらが絡み合って――戦争の原因を1つに絞り込むのは、私は不可能だと思います――戦争が起こると推測できます。

 

ヘラクレイトスの言葉

 ソクラテス以前の哲学者であるヘラクレイトスは「戦争は遍きものであること、正道は争いであること、万事は争いと必然に従って生じることを知らなければならない」とか「われわれは、戦争が万物に共通であり、争いは正義であることを知らねばならない。万物は争いを通じて存在し始め、また去っていく」(別訳)という言葉を残しています。

当時のギリシア世界では、絶え間のない紛争状態が続いていました。そうした状況の中で、ヘラクレイトスの見解は多くの「自由なギリシア人」――多くの奴隷がいたギリシアですから、誰もが自由な市民というわけではありませんでした――に共通のものでした。つまり、彼らは自分たちのことを「戦士」だとみなしていたのであり、生涯のうちには、槍兵として方陣を組んで戦うこと、あるいは、水兵として海上で戦うことがあるのを当然と考えていたのです。第2回目のブログ(当時は学部の「カルチュラルスタディーズ」のブログ)で、ソクラテスは屈強な軍人であった、と述べたことを思い出してください。

われわれの時代に目を転じると、状況はどのように代わっているでしょうか。キーガンの言葉では「ヘラクレイトスが唱えた、事物を創造し矯正していく力としての闘争の必然性という信念」は、もはや排斥されるようになっているのです。これは大変良いことだと思います。われわれは「争いを非難し、調和、妥協、共同性の理想をかかげる社会」に生きているのです。

 

一般市民は戦闘に耐えられるか?

少し前に、「草食系」「肉食系」という分類が流行となりました。私は、肉は好きですが、痩せ型で草食系です。つまり、戦争には不向きな人間です。キーガンは「〔現代において〕市民の多くは戦闘に耐えられない」と論じています。わが国にも「徴兵制を復活せよ!」という人がいますが、おそらくこれは、軟弱になった若者を精神・肉体両面で鍛え上げる必要があると思っているからでしょう。戦争するための徴兵復活ではないはずです。

20世紀以前には、ほとんどの社会は「すべての人間を兵士にしよう」となどとは思ってもみませんでした。さきに述べたように、自由なギリシア人=男性市民は、戦争にいくことを当然視していたのですが、20世紀になって、多くの国家がすべての男性市民に戦争にいくことを強制するようになりました。

その理由の1つは「戦争の継続時間の長さ」のためです。ギリシアの戦争は実際にはとても短いものでした。キーガンによれば、「最大限、1日の戦争で、戦闘自体もきわめて短いもの」でした。1時間ほどの戦闘のうちに、どちらかが崩れ、敗北したほうは逃げ帰り、勝利したほうは戦死者を埋葬しました。

しかし、20世紀の大規模な戦争は数年も続き、戦闘も何カ月も続きました。たとえば、第一次世界大戦でのヴェルダンの戦いは、1916年2月から11月まで続き、多くのフランス兵士は何度も前線に出るように命じられたといわれています。だから、この1度の戦いで、一般の古代ギリシア市民の生涯の戦闘時間をたたかった兵士もいたことでしょう。激烈で悲惨な戦闘をたて続けに体験する兵士たちは、肉体的にも精神的にも疲弊してしまいます。実際に、第一次世界大戦の最中の1917年から1918年にかけて、フランス、イタリア、ロシア、ドイツの兵士たちの間で交戦の決意が失せてしまいました。

 

戦争05 Jayel Aheram.jpgby Jayel Aheram 

 

第一次世界大戦では、各国政府は兵士の精神的損傷の増大を否認しました。つまり、事実を隠したのです。しかし、精神的損傷の大量発生は想像に難くありません。第二次世界大戦では、兵士の精神的損傷については、公に認められるようになりました。また、ベトナム戦争から帰還した兵士たちの間に見られたPTSDのことはよく知られています。

この事実から見ても、また、容易に想像がつくように、一般市民の多くは長期にわたる激烈で凄惨な戦闘ならびにそれに伴う緊張には耐えられないのです。そのことは容易に理解されるでしょう。

現在、世界的に徴兵制度は廃止されつつあります。その理由については、経済的問題・兵器の高度化・人権問題などいろいろとあるでしょうが、多くの一般市民が戦闘に耐えられないこともあるに違いありません。また、最近、先進諸国では、兵員数を削減する傾向にあります。しかしもちろん、現状では、先進諸国のすべてが軍隊(プロの組織集団)を持たなくなるということはありえません。

 

戦争はなくなるだろうか?

キーガンの本は大変に面白いのですが、彼のいうことを全面的に受け入れる必要はありません。私には、彼は母国イギリスを理想視しすぎているのではないか、クラウゼヴィッツの評価はそんなに単純でいいのか、などという疑問が感じられます。訳者の井上堯裕氏も、キーガンの著書の問題点をいろいろと指摘していますが、「あとがき」で次のように述べています――「戦争はなくなる、あるいはなくし得るというキーガンの主張こそがもっとも議論を呼ぶだろう」。

研究者としてのキーガンは、戦争の現実を見つめながらも、どういうわけか、戦争の未来/未来の戦争については楽観的です。以下では、最終章を参照しながら、「戦争はなくなるだろうか」という問題について考えてみましょう。

冒頭で述べたように、「戦争はなくなるだろうか?」という問いに答えはありません。訳者の井上氏も「戦争は、それがあまりにも破壊的なものになってしまったがために、戦争はなくなるだろうか、なくすことができるだろうかと問うこと自体が無意味となってしまった。戦争はなくさなければならないのである」と強く主張しています。私もそのように思います。しかし、何事も「言うは易し、行なうは難し」です。

では、どのようにすればよいのでしょうか?

第1に、私の考えでは、民間レベルでの各国の交流がさかんになり、互いの理解を深めることが望まれます。

「国民国家」(nation-state)という考え方が確立したのは、19世紀のヨーロッパです。国民国家が100年のちにも現在の形で存続しているかどうかは、まったく不明です。金融・経済・芸術・NPO・学問などのことを見ていると、国家という枠組みを超え出た活動に、多くの人々が関わっています。国家という上位組織の下位レベルで、人々の望ましい交流が進み、互いに理解し合うことが、今後ますます重要になっていくだろうと思います。1990年頃から多くの人たちの耳目を集めた「公共哲学」は、国家と個人の間に「民」という存在を強調していますが、その「民」のレベルの交流が進むことが重要です。

最近「日本人は内向きになり、留学しなくなった」という声が聞かれます。しかしながら、若い人たちが留学や外国に滞在することにより、将来の国々を担う(エリートになるという意味ではない)人々の交流が増えることが望まれます。留学したり外国に滞在したりして多くの国々の人々と交流することは、母国以外の国を知ることの絶好のチャンスです。世界中で、若いうちに留学や外国に滞在する人がもっと増えることは、将来の戦争に対する間接的抑止力として働くのではないでしょうか? いずれにせよ、「民」のレベルでの国際交流がさかんになることが期待されます。

第2に、キーガンも述べているように、やはり国際連合(国連)に期待をかけるしかないでしょう。

ご存じのように、国連の常任理事国は、英米仏露中という第二次世界大戦の戦勝国です。マスメディアでは、時として、常任理事国の拒否権発動などが報道されますが、首をかしげたくなるような拒否権の発動も報道されます。第二次世界大戦が終わって70年近くたっても、この5ヶ国が国連の常任理事国となっていることに疑問をもつ人も多いでしょう。私もその1人です。

しかし、世界平和の実現は現代段階では無理としても、非人道的な戦争にある程度国連が介入することは必要でしょう。もちろん、それには種々の面で問題もあります。まず、思い浮かぶのは、国際法の基本原則である「国家主権」と「内政不干渉」の原則の衝突があげられます――最近では、人道的な見地からの内政干渉が許容される傾向にあるようです。その他、自国の国益を考える常任理事国、国連が軍隊を組織するときの人的・経済的負担の分配など、種々の問題が挙げられます。また、1998年のイラクでの事件など、必ずしも成功例ばかりがあるのではありません。

たとえ、上記のような難問があるとしても、現時点では、国連の調停活動や平和維持活動に期待せざるをえません。戦争は、現代においては国家単位で行なわれていることは少なく、国家よりも下位のレベルでの組織・集団間で行なわれています。いずれにせよ、国家同士のレベルの戦争か、国家よりも下位のレベルでの戦いかのいずれかを問わず、超国家的な戦争回避の組織は必要でしょう。

そうしたことを実行にうつすのは誰でしょうか? さまざまな国から集まった兵士たち(註)です。

 

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by The U.S.Army

 

名誉ある戦士たち

キーガンの著書の最後は、次のような言葉で締めくくられています。

  世界の平和を守るものは、最後の手段としては、法でもなく、行政機構でもありません。私たちの最善の平和的な努力にもかかわらず、もし実際に戦争を文明の水平線の彼方に追いやることができるとすれば、それは、国際連合が不法な武力に合法な武力をもって立ち向かう意志を持つことによってであり、また、その合法の武力を国際連合に貸す国々の政府が、命令を実行することを名誉とする人々を訓練し、給料を払い、装備することを続けるからであります。この名誉の職は、つらく、しばしば危険で、いつも十分に報いられていません。……

  暴力は、法の支配が用いることのできるもっとも恐ろしい道具です。もし戦争を終わりにしようとする努力が実を結ぶのを見たいと思うのでしたら、戦争の原因を検討することに尻込みしてはなりません。同じように、暴力が行使されるのに尻込みをしてはならず、また、平和の大義のために力を執行する名誉ある戦士たちに栄誉を与えることに尻込みしてはならないのです。

「命令を実行することを名誉とする人々」「平和の大義のために力を執行する名誉ある戦士たち」というのは、状況により、さまざまな国から集められた兵士たちのことです。日本にいると、平和維持軍の活動は「なんとなく遠いところでの話」と感じる人も多いかもしれません。しかし、世界の平和維持のために派遣される兵士たちの活動について真剣に考えてみることも、世界平和の実現にとって大切なことではないでしょうか。

 

おわりに

今回は「平和」について考えました。

次回は、11月5日に発売される、石川明人『戦争は人間的な営みである――戦争文化試論』(並木書房)を取り上げます。そして、この中にある平和をめぐる議論に焦点をあててみたいと思います。かなり痛烈に、観念的な平和主義が批判されています。

その次のブログでは、古典中の古典、哲学者のI・カントの『永遠平和のために』という小ぶりながらも有名な著作を取り上げます。彼の理想と現実世界のギャップを考察するつもりです。

平和について、最新の著作と古典を通じて、さらに深く考えていきましょう。

次回のアップは12月1日です。ひょっとしたら、日本で最初に『戦争は人間的な営みである』を論評することになるかもしれませんね。

 

          星川啓慈(比較文化専攻教授)

 

 

【註】ウィキペディアの「国連軍」によれば、国際連合において「兵力提供協定」を結んでいる国がありません。そのため、国際連合憲章第7章に基づく、安保理が指揮する「国連軍」が組織されたことは、これまで一度もないようです。今回のブログの脈絡では、主として「平和維持軍」(Peacekeeping Force)のことを思い浮かべていただきたいと思います。また、「国連軍」「平和維持軍」「多国籍軍」は異なるものです。

 

【参考文献】

(1)ジョン・キーガン(井上堯裕訳)『戦争と人間の歴史――人間はなぜ戦争をするのか?』刀水書房、2000年。

この本は、戦争について考えるきっかけとしてはコンパクトでいい本です。しかし、訳者も指摘していることですが、かなり癖があるようにも思います。この本は、英国民のために企画されたBBCの連続講演(リース・レクチュアーズ)がもとになっています。ですから、以前に書いたように、第二次世界大戦で戦った宿敵ドイツ(正確にはプロイセン)のクラウゼヴィッツが評価されるわけはありません。

 訳注が行き届いているので、個々の事柄について知らなくても充分読めるように配慮されています。訳者の配慮に敬意を表します。

(2)ウィキペディア「国連軍/国際連合軍」「国際連合平和維持活動」「多国籍軍」。

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